Exhibition

顕神の夢 霊性の表現者
超越的なもののおとずれ
【終了しました】 足利市立美術館

GO ON編集人

【展覧会概要】※展覧会概要の下に取材記事を掲載しています

非合理的で直接的な経験が表現者にとってかけがえのないモチベーションとなることがあります。それはある種の宗教的な体験に似ていますが、宗教以前のものであり、宗教のもととなる出来事とも解釈できます。
表現者たちは、訪れたヴィジョンをたよりに、自己を超えた名状し難い「何か」を捉えるべく身を焦がす思いで制作します。「何か」への思慕は、漠とした信仰心の発露ともいえます。しかし、描けば描くほど、作れば作るほど、その「何か」は、表現者の手からすり抜け別のものとなり替わってしまいます。そのため、彼らは向こうから「何か」がやってくるのを待つしかありません。本展ではこのような心情を仮に「顕神の夢」と名付けてみました。
ときとして土俗的な印象を与える作品が出来(しゅったい)しますが、それは、近代化により捨象されず根強く残った心情の証しです。このような作品は既存の尺度では、測りえないものです。かといって、排除するわけにはいきません。現に作品は凄まじい力をもって迫ってきます。ならば、私たちは、作品にふさわしい尺度を学び、鍛えなければなりません。尺度がそぐえば作品は豊かな世界を開示してくれます。また、このような観点から、いわゆるモダニズムの文脈でのみ解釈されていた作品を読み直すことも可能です。優れた作品はすべからく不可知の領域に根ざしていると思われます。
本展は、今までモダニズムの尺度により零(こぼ)れ落ち、十分に評価されなかった作品や、批評の機会を待つ現代の作品に光をあてる一方、すでに評価が定まった近代の作品を、新たな、いわば「霊性の尺度」でもって測りなおすことにより、それらがもつ豊かな力を再発見、再認識する試みです。

【展覧会を鑑賞して】

本展のタイトルとチラシのビジュアルをみて、すでにそこから発する力強さを感じ、導かれるように会場へ足を運んだ。タイトルから展示をイメージすることは若干難しいかもしれないが、概要の一文が全てを語っているように思える。

― 本展は、今までモダニズムの尺度により零(こぼ)れ落ち、十分に評価されなかった作品や、批評の機会を待つ現代の作品に光をあてる一方、すでに評価が定まった近代の作品を、新たな、いわば「霊性の尺度」でもって測りなおすことにより、それらがもつ豊かな力を再発見、再認識する試みです。―

「霊性の尺度」とは何か。私はこの言葉を頭の片隅に置きながら鑑賞した。では、特に気になった作品の感想を述べたいと思う。

I 見神者たち
展示室1の入り口正面にある金井南龍《富士諏訪木曽御嶽のウケヒ》は、橙、黄、緑、青といったインパクトのある色と幾何学模様の不思議さに引き込まれてしまう。神々しさと生命力に圧倒される。
宮川隆《無題》3作品。宮川氏はグラフィックデザイナーとして仕事をするかたわら、1993年頃からインクによる自動筆記ドローイングを描くようになったという。一見グラフィックパターンかと思いきや、近づくと非常に緻密な文字のような線で描かれている。
―これは文字として読もうとする限り読めない。そこには恐ろしい量の情報が仕組まれている。―といった説明がある。描かれている文字を解読したく、作品との距離を近づいたり離れたりしながら鑑賞した。

II 幻視の画家たち
八島正明《給食当番》。亡くなった妹を影として描いた作品である。広島の人影の石が作者の人生を変えたという。木綿針で絵具の層を引っ掻き削る表現方法が影響しているのか、デッサンのような柔らかさがあり、色の無い世界なのにあたたかさが滲み出ていた。

IV 神・仏・魔を描く
高島野十郎《蝋燭》。―祈願を込めた絵馬になぞらえて奉納するといった一種の宗教儀式―と説明があった。作品をみていると心が安堵していくのだが、理由はそれだろうか。
吉原航平《無題》のひとつは、生物の内臓や木、もしくは人間が朽ち果てていく様子にみえる。説明には、―日々の石を置き積み上げるように描き〜最後に獅子の即身仏のような顔が出て景色が像となった。―とある。不気味だが、ただならぬ気を感じて動けなくなってしまった。

本展では、なぜか色の無い作品に惹かれた。作品とともに展示されている作家の言葉にも感銘を受ける。私は「霊性の尺度」とは、理屈や言葉では語り尽くせない、作品に宿る気力ではないかと感じた。圧巻の作品の数々。ぜひ時間をかけて鑑賞していただきたい。

※施設の利用状況に関しては足利市立美術館のWebサイトをご確認ください

Place

足利市立美術館
足利市立美術館

集合住宅と併設された美術館。1階と2階は美術館、その上は住居という個性的なつくり。 通るたびに、住んでいる方をうらやましく思う。