Column

悟ったら、ごめんなさい

髙橋奈鶴子

ポンポンポン、と決まった動きとルートで一定のリズムで手を動かす。廊下や庭で同じところを行ったり来たりする。

15年ほど前から始めた瞑想だ。私が普段行っているのは手動瞑想という〈気づきの瞑想〉のひとつで、チャルーン・サティとも呼ばれている。タイ北部出身の僧侶、ルアンポー・ティアン師があみ出した瞑想法で、現在はタイ東北部を中心に実践されているようだ。〈瞑想〉と聞いて、静かな空間で微動だにせず意識を集中させるといった状態を思い浮かべる人がいるかもしれないが、瞑想にもいろいろあって、手動瞑想は手の動きを用いながら覚醒力を培うことに重点をおいている。基本の形としては、座って片手ずつ7つの動作を繰り返す。歩く瞑想というものもあって、ある決めた場所を往復する。動きは変わったとしても共通しているのは、能動的に動かした体の一部に意識を向け感じることだ。

始めたきっかけは、何気なく見ていた新聞の特集で宗教人の最近の活動について紹介されているものがあって、小池龍之介という都内で自宅アパートを寺として座禅瞑想会を開催したり、ホームページで四コマ漫画や“文字ラジオ”で仏道に関する訓えや情報を発信したりしている僧侶を知ったことだった。面白そうだったし悶々とした日々だったので、凛々しい雰囲気に憧れ、早速、小池さんに連絡をとって瞑想会に参加するようになった。どちらかというと、宗教というものに身構えるタイプだった私が、抵抗なく行こうと思えたのは、小池さんの活動が日常の延長にある訓えを説いているように思えたからだ。それまでに行っていたヨガや合気道、学校で専攻した心理学にも通じるところがあったし、言語を学ぶ理由で通っていたベトナムや中国系の寺に集まる僧侶や一般の人たちと過ごす時間は楽しくて、その時間のおかげで、自分の日常を肯定的に捉えられる経験をしていたからかもしれない。

小池さんの月読寺で瞑想を始め、座って目を瞑り何時間も自分の内面の動きを見ていくのは苦しい作業でもあって、普段、自分がうまくいかないことを環境のせいにして、いつも怒っているような状態になっていたことを思い知り、「生きてて、すみません」という気持ちにもなった。そして、月読寺の瞑想会も最初は数名で和やかだったが、数年後には参加者も爆増し〈上級者クラス〉だとか〈テスト〉なんかも設けられるようになって、参加者同士で競争する気迫が充満したピリついた空間の居心地の悪さを感じるようになって行くのをやめた。

ちょうどその頃に、小池さんの師でもあるタイ東北部にある森林僧院・スカトー寺で副住職を務める日本人のプラユキ・ナラテボーさんの群馬での瞑想会に参加する機会があった。プラユキさんの飄々ぶりには、あっけにとられ、とういうより「インチキくさいな、この坊さん」くらいに初めの頃は疑いの目で見ていた。連絡を取り合っていく中で、さらりとプラユキさんが「スカトー寺に、いつでもどうぞ」と声を掛けてくれたことになびき、スカトー寺に在家者として数週間滞在した。訪ねた2回とも、僧侶が一ヵ所の寺に滞在する〈雨安居〉という期間だったため、大勢の僧侶に紛れ朝夕の読経や托鉢、瞑想をして過ごせた。森の中ということもあり、その環境に身を置けたことだけでも、心身にへばりついたものが流れ軽くなったようにも思う。

私の場合、瞑想を始め間もなくして、それまで体感したことのない集中ゆえの静寂さの気持ちよさの虜になっていた。目を開けてリラックスした体勢で行う手動瞑想は、より日常に近いのも私は気に入っている。プラユキさんも「瞑想は練習。日常が本番」といったニュアンスのことを繰り返し言うように、それぞれの生活という現場でしあわせに生きられるかが、瞑想の目的であるのだろうから。少なくとも、私にとっての瞑想はそうだ。なので、日常的に手動や歩く瞑想の時間を設けている。一時枠にはまることで原点に立ち返りやすくなる。応用編として、さまざまな場面が瞑想の時間になる。〈猫をなでる瞑想〉〈カフェで隣に座る人の鼻歌が気になってしょうがない瞑想〉〈餅を食べる瞑想〉など、いろいろでいつだってできる。あまり複雑でない動作があるのがポイントで、私にとって特に料理はちょうどいい。ほどよい集中力が必要で感覚を開きやすい。書くこともそう。GO ONの原稿も、毎回最初はペンで紙に手書きしている。ペンを握って書き進めていると、覚醒してきて素な言葉も出てきやすい。何がどう感覚に影響するのか不思議だが、自分にとっての手段の相性みたいなものがあるのだろう。

瞑想に取り組んでいるからと言って、常に穏やかで冷静な状態であるわけではなく、怒りも悲しさもわくし、有頂天になって突っ走ることもある。悟りを目指しているわけでもない。そもそも〈悟る〉が何なのか知らない。ただ、目的地はなくとも感情や思考の波にのまれても、またやり直せばいいね、と顔を上げられるようになっただけでも、ましになったんじゃないかとは思っている。「悟ったら、ごめんなさい」と真顔で言えるくらいの適度な心持ちでやっていけたらいい。

Creator

髙橋奈鶴子

群馬県桐生市在住。教育、医療、料理、福祉の仕事を経て、現在は新聞記者として働いている。