Column

いるのにいないだれか 4
―ハラキリ―

髙橋奈鶴子

午前5時33分。2度目のアラームが鳴った。
「おはよう、オレンジ」7か月前までは、朝ご飯がほしくて枕元へやってきて私の顔をのぞき込んでいた猫に挨拶をして、ねむたい身体を一気に立ち上がらせた。首にまだ力が入らないまま、ロングTシャツとヨレヨレのレギンス、足には春夏用のレッグウォーマー姿で台所に立った。流し台の前にある窓に差し込んでくる光に、就寝時には降っていた雨が止んでいることに、ようやく気づかされた。

今日は水色のシャツに紺色のカーディガンを羽織って、下はアイボリーホワイトのチノパンを穿けばいいだろう、あ、チノパンはアイロンかけてない。40歳を過ぎたころから気になりだした冷え対策のために習慣化している朝一の白湯を飲み終え、手もとではパンのスライスに米みそと練り白ごまペーストでマーブル模様を描いた。そしてその上に、冷蔵庫に残っているカブの浅漬を固く絞っててんこ盛りにし、もう1枚のパンをのせて軽く押さえた。はい、ごまみそカブサンドの出来上がり。これで今日も大丈夫。続いて、運転中につまむ朝ごはん用のナッツとたくあんをそれぞれラップにくるんだ。せっせせっせと手先を動かしていると、少しずつ、今日という1日に身体も意識も馴染んでくる。最後にタンブラーにコーヒーを入れて準備完了。

「いってくるね、オレンジ」出かけることに不服を訴えるようだったオレンジの姿を見て、荷物を右肩にかけ玄関のドアを開けると、土と芽生えたばかりの草木の匂いに眠気は吹っ飛んだ。大きく匂いを吸いこんで、ぬかるんだ庭を通過し、家の前に停められた車に乗り込んだ。シートベルトを締めようとしたとき、フロントガラスに薄茶色の肉球印が点々とあるのが目に入る。「あ、きっとまた、ホームズだな」地域猫の朝の見回りルートになっているらしく、足跡が上から下へとむかって付いているのを目で追うと、ワイパーとフロントガラスが接触するところに、淡い緑の葉と、となりの家のカリンの木からだろう、薄ピンク色の花弁が積もっている。発車すると、その葉や花弁はふわっと飛んでいった。

通勤時は、お馴染みさんがいる。すれ違う瞬間、アクセルを踏んでいる右足のつま先を、ほんの少し浮かせて、今朝も挨拶。「健闘を祈ります、私も頑張りますので」。

職場である福祉事務所のまだガラ空きの職員用駐車場に到着しエンジンを切り、椅子の背もたれに身を沈め、毎度のごとく目をつむった。決して、上司や同僚との人間関係に困っているわけでも、仕事内容に不満があるわけでもない。相談に来た方に何かしらの解決策や提案が差し出せて、不安で硬直した表情が安堵の表情に変化したときなどは嬉しいと感じるし、積み重なった経験により複雑なケースへの対応力もある。あるけれどもだ。「出来る」ことと「向いている」とはちがう。

午後6時。今週もそつなく相談員としての役目を果たせたと感じながら、事務所から車へと移動。ホームズの足跡は乾燥して、白くなっていた。残ってくれていたことに、朝の自分と今の自分が同じ世界にいることを認められたようで安心した。スマホと見ると、カオルからのメッセージがあった。

「タマキ、今日も仕事だったよね、お疲れさま。今夜の予定って決まってる?もし空いていたら、知り合いの家でオープンマイクがあるのだけど、それにいっしょに行かない?」

「行くに決まってる」と速攻、返信。

「ただいま、オレンジ」郵便ポストに入っていた何とか保険や高校の同窓会の案内をゴミ箱に放り投げ、荷物をリビングの床に置いた。家に到着した頃にはきていたカオルからの返信によると、カオルを迎えに行くのは夜8時だから、それまでには時間がある。一先ず、コーヒーを淹れて一息つこう。台所のカウンターに寄りかかり、コーヒーをすすり、視界をぼやつかせながら、可能な限り呼吸に意識を向けた。「私、呼吸してるよ」短く浅いそれのリズムが、徐々に長く深くなっていくのを見守った。

「さてと」私は「くの字」になっていた身体を、腰の力でひょいっと浮かせ、カップと手を洗った。そして、部屋の隅の定位置に置かれた水色と赤ピンクの面を持つヨガマットを、今日は水色の面を上にして広げた。

私は履いていた黒の靴下を片方ずつ丁寧にゆっくりと脱ぎ、マットが前方に敷かれている端の位置に正座。大きく息を吸い、そして吐き、キャット・スティーヴンスの『ドント・ビー・シャイ』をハミングしながら、右手で前髪を左に流した。ゆっくりと左手を伸ばし、ヨガマットに置かれた目の前のアレをつかみ、その左握りこぶしに右手を添えた。目をかっと見開き、大きく息を吸って両手を一気に左脇腹に押し込んだ。「うぐっっっっ」腹に当てられたままの両手を今度は一気に右側へと滑らせた。と同時に膝立ちとなった私は顎を上げ天井を見た。そして、マリオネットの糸が切れてしまったように、私は崩れ落ちた、ヨガマットの上に、右側から、どすっと音を立てて。再度『ドント・ビー・シャイ』をハミング、フェイドアウト、そして沈黙。

続く

Creator

髙橋奈鶴子

群馬県桐生市在住。教育、医療、料理、福祉の仕事を経て、現在は新聞記者として働いている。