長いトイレからでてきた夫が、スマホを持っていないかどうかを無意識のうちに確認している自分に気づいて、ちょっといやな気分になったりした。自転車で道ばたを走っていたら、きゅうに側溝のふたが、ガックンとずれて肝を冷やすときのような。
「お腹壊した?」さりげないふうを装って尋ねたら、「んー、だいじょうぶ」と夫は言った。そのあとに、彼が手を洗うじゃーっという荒っぽい水の音が聞こえて、それですべては排水溝に流れてしまった。ちっちゃいどうでもいいあれこれを水に流して、時には掃除機で吸って、ほうきではたいてクイックルワイパーでサッサッサとふきとって、日常は回っているのだ。今日も。
じゃあ行ってくる、と夫は背中でつぶやきながら靴べらで靴をはいた。
「靴べら使うの上手だね」
「靴べら使うのに上手とかないと思うよ」
呆れた声で夫は言うけれど、私は本気で褒めているのである。靴を履く時に靴べらを使ったことなど、私は人生で一度もない。
「夕飯までには帰るね」言いながら靴べらをフックに戻し、そのついでにこちらを向いて私の下くちびるにキスをした。コーヒーの匂い。私がいっくんを見下ろせるのは、玄関で行ってらっしゃいをして、三回に一回くらいキスをする、そのときだけだ。
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夫の運転する、軽バンのエンジン音が遠ざかると、私はくるりと踵を返した。てきぱき歩くと廊下にスリッパの音がいつもより大きく響く。キッチンには、朝焼いたししゃもの残り香がただよっている。空気の入れ替えをしようかしら、と小窓に手をのばしかけ、ふと気づいてその手をとめた。そして窓を開けるかわりに、青いリネンのカーテンを窓の端まで、きっちりと閉めなおした。——見られるといけないから。
フローリングの床にかがみ込む。耳の先が床にふれたけれど、何の音も聞こえない。
足元のつめたい金具を押して、床下収納庫の扉の取っ手に指をひっかけた。力を込めて引っ張ると、軋んだ音とともにそれは開き、カーテンの布地をとおって射しこむ光が道筋のように闇に吸い込まれる。ほこりのにおい。
「いるの?」
なるべく小さな声で、私は闇に向かって呼びかけた。
「出てきていいよ。今、出かけていったから」
床下の闇は、最初のうち沈黙していたけれど、しばらくすると深海のように揺らめいて気配をはらみ、やがてなにかがうごく鈍い音とともに、あどけない声が聞こえてきた。
「うううん、いまいく」
私はそれが頭を打ったりしないように扉を両手でしっかりおさえた。その間からひょっこり生えてきた、花柄の帽子の下で、ふたつのつぶらなひとみが私を見て笑った。
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「きょうはお休みじゃないの?」
花柄の布を縫い合わせて作られたチューリップハットに、顔半分をうずめたこどもが、ソファにすわって足をぶらぶらさせている。
「ほんとうはお休みなの。でも急に呼び出しされちゃったんだって。あたらしいふとんカバーを買いに行く約束だったのに」
「さみしい?」
「さあね。でもいいの。そっちもそろそろ出てきたい頃だったでしょ」
「さあね」
私が淹れてあげた砂糖たっぷりミルクティーのカップを持ち上げる手が、こどもらしくぷっくりとしている。Tシャツとズボンは今日も清潔。彼女が——いや、それが(なにしろ人間ではない可能性が高いものだから)床下から這い出てきたとはとても思えない。
「ふとんカバーくらい、ひとりで買いに行ったらいいのに」
「そうかな」
そうかも。ひとりで何だってできる。夫と暮らす前はずっとひとりだったのだから。
「でも、いつもこうしてきたの。一緒に選んで、一緒に使うの」
「それが夫婦ってこと?」
聞いた割に、私の答えには興味がないみたいだった。このお菓子おいしいねー、と言いながら、そのこどもはふたつ目のレーズンサンドに手を伸ばしてはしゃいだ。
「そういえば、どうなの?」
「どうって、なにが」
何のことかわかっているくせに、私は聞き返した。さわらないようにしていたできかけのにきびを撫でられたような苛立ちが胃の中をよぎり、それを誤魔化すために、渋くなった紅茶をすすってわざとらしく顔をゆがませてみる。
「うわき、しているかどうか」
ティーバッグを入れっぱなしにしてしまった紅茶は想像よりずっとずっと苦い。紅茶が苦いのか、それとも私の舌が苦いのだろうか。
「わからない」
「トイレにスマホを持っていくだけ?ほかには何もないの?」
「べつに何もない。それに今日はスマホを持っていかなかった、トイレは長かったけれど……」
でも時々ふと怖くなることがあるの、という言葉は言わずに飲みこんだ。こどもにはわかるまい。手を繋いでいるのに、その横顔に私の知らない冷たさがあるのを知って、心臓が重く鼓動する夜更けのことを。
「でも、あの人のことを、あなたが全部知っているわけじゃない」
それはどこか冷めた目で、私をちらりと見て言った。何も知らない子供が発した言葉とは思えなかった。そのつやつやしたおちょぼ口も赤い頬も、いかにも純真無垢なありさまをしているのに。
はじめてそれと出会ったときのことを思いだした。夫とちいさな「話し合い」をした後で、それは表向きとても円満で穏やかなものだったけれど、私の心の片隅には拭き忘れた汚れみたいなわだかまりがほんのちょっと残っていた(おそらく夫も同じだったはずだ)。静かになったキッチンで、私はくちびるからひとりごとをこぼしながら皿を洗った。「いつになったら、わかるのかなあ」「わからなくても、だいじょうぶだよ」聞こえるはずのない返答が真後ろから聞こえた。ぎょっとして振り向くと、収納庫の扉を重そうに持ち上げたこどもが、はにかみながらこちらを見上げているのだった。
最初は、あやかし的な何かを見てしまったのではないかと思った。でもそういう恐ろしさはすぐ消えた。それは何も言わなかったけれど、私の味方なのだと表情でわかったし、頭にのせたチューリップハットは私が幼少期に気に入っていたものにすごく似ていて(今考えればおかしな話だけれど)驚きよりも懐かしさで私は言葉をなくしていた。
今、そのこどもは口の端にお菓子のかすをつけて、ませた顔でこちらを見ている。その瞳の奥がどの世界と繋がっているのか、私は知らない。
「もちろん知らない。全部なんて」
知らないことへの不安の隣には、知れないことへの絶望がぴったりとよりそっている。
「でも、いっくんは仕事机の片隅でかいわれ大根を育てているの」
突然目の奥に、机の上のかいわれ大根に水をやる夫の姿がくっきり浮かんだ。彼は顔を横にして、ひょろひょろのびる芽の集合体に見入っている。私は胸の奥の深いところが、きゅうに熱を持ってくるのを感じて、二度、浅い呼吸をする。
「つまらないと思うんだけど、飽きずにずっと見てるの。それでね、言うの。森みたい、って」
私はかいわれ大根を見て森を連想したことなんか人生で一度もなかった。もし夫の目になれたなら、世界はぜんぜん違って見えるのだろうか。私のことはどんなふうに見えている?知らないし、一生知れないことだけど。
心の中にある小さな窓が開いて、その向こうに青が見えた。
絶望の隣には、ほんとうは喜びがある。永遠に知らないでいられる、という、地面から湧き上がるような喜びが。
「好きなの。そういういっくんが」
満面の笑みよりもずっとやさしい無表情で、そのこどもは微動だにせず私を受け止めていた。
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忘れ物をした。
夫は昨日の想定外の仕事で疲れてしまったのか、家で休みたいと言って私との買い物を断った。来週なら一緒に行けるよ、と言われたけれど、べつに子供ではないのでふとんカバーくらい自分で買える。夫をひとりで家に残して行くことになるけれど、前ほど不安にはならなかった。知らないことと同じくらい、私には知っていることがある。
足早に家まで戻ってドアを開けた。鍵はかかっていなかった。
エコバッグを取りにキッチンへ行こうとした時、ふと視線を感じて固まった。手足が急速に冷えていく——目をつむり、息を吐き、ゆっくりと脱衣所の方を振り返った。
こどもがいた。
水色のリュックを背負った男の子が、半開きになったトイレのドアからひょっこり顔を出していた。目を丸くして私を見ていたが、しばらくすると弾かれたようにとびはねてからドアの向こうに消えていった。私は惚けたように誰もいないトイレのドアを見つめた。
大地からふつふつと上がってくるような笑いがお腹の底から湧いてきた。このうえなく幸せで仕方なかった。私に床下があるように、あなたにも井戸の底のような深みがある。それを抱えながら、おなじふとんカバーをかけたふとんで眠れることが、ありえないほど嬉しかった。
私は肩をくつくつ震わせながらそっと廊下をすり抜けた。知らないでいられるように。トイレが長くてかいわれ大根を育てていて、やさしくて繊細で変わり者のおとこのひとの、愛すべきひめごとを。