Column

サイトウ兄弟往復書簡
その1 ゲームのこと(サイトウ兄)

サイトウナオミ

GO ONの原稿を書いてみないかと弟に誘われた。サイトウ兄弟の往復書簡というスタイルで、交互に何かしらの文章を書いていくという企画とのこと。あまり深くは考えず、やるよ〜と答えてしまった。しばらくして1回目の原稿が送られてきた。ゲームの話だった。次に繋げやすい話題をと気を遣ってくれたのだろうか。そういえば結婚式でスピーチをたのんだら、兄は面白いものを見つけるのが得意で、ブームになる前からドラゴンクエストに目をつけていた、とかなんとか言われた気がする。ともあれせっかくいいパスをもらったので、思い出のゲームのことから書きはじめてみることにする。

Hokkaido ’95

『北海道連鎖殺人事件 オホーツクに消ゆ』はドラクエで有名な堀井雄二がシナリオを担当したアドベンチャーゲームである。元々はパソコン用のゲームだったが、1987年に大幅にリニューアルしたファミコン版が発売された。私が遊んだのはこのファミコン移植版である。なお「消ゆ」は「きゆ」と読む。

プレーヤーは警視庁捜査一課の刑事となり、晴海埠頭に他殺死体が上がったことに始まる殺人事件の捜査を行う。捜査の末、被害者は釧路市在住の増田文吉であることが判明し、舞台は北海道へ。釧路書の刑事猿渡俊介、通称シュンとともに捜査を開始するも、捜査線上にあがった人物が次々に殺害されていく。果たして事件の真相は?

ストーリーはさすがの堀井雄二。旅情ミステリとして完成度が高く、本であればページをめくる手が止まらないだろう。むしろノベライズ版を読みたい。内藤剛志あたりの主演でドラマ化でもうれしい。グラフィックも当時のファミコンとしてはがんばっていて、低解像度ながら人物も風景もうまく描いている。音楽もよかった。オープニングテーマや事件現場の曲などは未だによく覚えている。

と、このように満足の出来のゲームだったのだが、それ以上に私を虜にしたのは、北海道という悠久の大地であった。いやいや自然でいえば群馬もなかなかのものだろう、と、思うのは東京でサラリーマンをやっている今だからこそ思うことで、当時は家の周りの自然に大してありがたみを感じてはいなかった。だからゲームの中で折に触れて感じられる北海道の雄大さは私の中で憧れへと変わっていったのである。

そんな憧れの北海道に私が初めて足を踏み入れたのは大学進学のため上京した1995年のことだった。私は大学でワンダーフォーゲル部、略してワンゲルという山登りのサークルに所属していたのだが、そこでは毎年夏合宿として9泊10日くらいの行程で縦走登山を行っており、その年は北海道だった。

著者近影

当時のワンゲルは部員数が多かったので、4〜7人のパーティーが複数組まれ、行き先も道中央部の大雪山系と中央南部の日高山脈に分かれた。私は日高だったのだが、登山道が整備された大雪山系に対し、こちらは道らしき道のないようなところを歩くルートとなっていた。そんなルートに高校も山岳だったことからカッコつけてやろうと思って志願したのが大きな間違いだった。ヒグマにも怯えなければならないし、山中では度々やめときゃよかったと思うことになったのである。下山後は確かにいい思い出にはなったが、もう一度行きたいルートではない。

だか、そんな山の中の艱難辛苦はあまり北海道という感じのものではない。むしろ山に入るまでと下りた後こそが北海道本番である。学生だった私たちは当然飛行機を使うという経済的余裕はなかった。そこで使用したのが1日2千円と少しでJRの普通列車なら乗り放題になる青春18切符だった。東京を朝早くに出た私たちは東北本線を北上し、八戸へと向かった。仙台くらいまでは皆元気だったが、岩手に入ったくらいから車窓からみえるものがひたすら田んぼになり、疲労の色が見えてきた。八戸に着いたのは19時を過ぎていたのだが、ここから苫小牧行きのフェリーに乗ることになる。苫小牧に着いたのは翌早朝。北海道に至るまで、実に一昼夜の道行きであった。ここから各パーティーに分かれ、下山後の再会を約して、それぞれの登山口に向かった。

10日後、前述した通りボロボロになって下山した私たちは最寄りの大都市である帯広に向かった。ここで一泊し、翌日は大雪山系から下山した仲間の待つ旭川へ向かうのだが、泊まると言ってもホテルに入るでもなく、駅の軒先を借りてゴロ寝するだけである。洒落た言い方をすればステーションビバーク。いわゆる駅寝である。当時の北海道は駅寝に寛容で、私たち登山者のほか、バイカーなども駅寝をしていたように記憶している。要するに野宿なのだが、街の中というだけで山でのキャンプ生活と比べて格段に快適だった。

10日間山の中にいた私たちはとにかく文明的な食事に餓えていた。駅に荷物を置いて寝床を確保すると、居酒屋に駆け込み、ビールで喉を潤して唐揚げやらフライドポテトやらを貪った。居酒屋ではなく定食屋にでも入って地のものでも食べればよかったのでは、と今となっては思うのだが、当時の心境としては忘れていたいつもの味を欲していたのだろう。そして、居酒屋を出た後、山でドロドロに疲れているにも関わらずボーリングをしたのだから、若さというのはよくわからない。

翌朝、4時頃に叩き起こされ、帯広から札幌へ向かった。目的地は集合地点の旭川ではなく札幌へ向かった。私のパーティーとは別に日高山脈へ入りまだ下山していなかったもう一つのパーティーの動向を把握するため、ということだった。結局下山連絡は確認できず、旭川へ行くことになった。改めて地図を見てみると帯広と旭川は直線で行ける。札幌経由だと大いに遠回りになる。青春18切符のおかげて交通費の心配はないとはいえ悠長なことをしたものだ。もっとも車窓の風景からは夢に見た北海道の原野を楽しめたように記憶している。

旭川には下山できていないパーティーを待って2泊することになった。宿泊先はもちろん旭川駅である。手持ちぶさただったので山の中で汚れたものをコインランドリーで洗ったりとまるでウッドストックのような生活をしていた。大雪山系のパーティーは私たちより早く下山しており、旭川には既に2日泊まっており、何でも車を借りて富良野まで観光に行っていたらしい。『北の国から』が好きな先輩が嬉しそうに話していた。

旭川の2日目で最後のパーティーの下山が確認できたので、一旦解散となり、一部の人は帰途についた。私は下山したパーティーを出迎えるという部長たちと札幌へ向かった。札幌で無事再会を果たした私たちは、そのままサッポロビール園で打ち上げをした。よくよく思い出してみると、北海道グルメらしいものを味わったのはこのビール園のジンギスカンくらいだった。その晩は札幌駅で駅寝をし、翌日、新潟行きのフェリーに乗るために小樽へ移動。運河を見ることもなく、あわただしくフェリーに乗り込むことになった。

こうして私の初めての北海道は終わったのだった。

私が行かなかった大雪山系パーティーは、こんな感じでセイシュンを謳歌していた

10数年後、私は再び北海道へと足を踏み入れるのであるが、旭川も札幌も様変わりしており、駅寝ができそうな場所などなくなっていた。思えば色々ともったいないことをしたようにも思えてくる。ちょっとした観光をするとか、地のものを食べるとかできたろうに。

一方で学生時代の、あの何も考えずただ北海道の空気を吸っているだけで満足できていた感性が無くなってしまったことは少し寂しいようにも思える。年をとって私は成長したのだが、同時に衰えているのだ。北海道へはその後何度か行っているのだが、1995年の私が体感した北海道へは二度と行くことはできないだろう。

以上、ゲームの思い出から始まり学生時代の北海道の思い出のことを書いてみたのだが、往復書簡としてどこか拾えるところがあるだろうか。だが、まあ、言い出した当人のことだ。何とかしてくれるだろう。

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Creator

サイトウナオミ

地図描き/ふやふや堂店主。群馬県桐生市出身。東京・京都を経て2012年秋より再び桐生市に住む。マップデザイン研究室として雑誌や書籍の地図のデザインをしながら、2014年末より「ちいさな本や ふやふや堂」をはじめる。桐生市本町1・2丁目周辺のまちづくりにも関わり始める。流れに身をまかせている。