眠れぬ夜に、彼女はやってくる。
ふ、と夜の香りがして、(夜露と暗がりの苔むす匂い、冷たくてよそよそしい匂いだ)気づくと彼女は私の隣で眠っている。ユウ、と呼んでいる。彼女がそう名乗ったからだけれど、それが名前なのか、それともただ単にあなたという意味なのか、それはわからない。
長旅だったのだろう、この辺りに住人は私だけである。寂しくて冷たい道を、彼女は一人歩いてきたのだ。しばらく寝かせておこう、とそろりベッドを出る。
重たいカーテンを押しのけて外を覗くと、まだ月はてっぺんでしんしんと輝いている。光が、藍色の幕にじわりと浸透していく。夜はまだまだ長い。向かいの屋根の猫と目があって、慌ててカーテンを閉めた。
彼女はきっと少しもすれば起きてくるだろう。沸かしたお湯で二杯分の紅茶をカップに用意し、ぽとりと角砂糖を一つずつ落とす。かけらを一つ二つと手放し、ゆるやかにほどけていく様を見ながら、今日の記録にしようとインスタントカメラを持ってくる。シャッターを切る。慌てた巻き取り音。フラッシュが目に痛い。パタパタと濡れたフィルムを振っていると、背後から声がかかった。
「今日は紅茶?アールグレイかな」
疲れ目をぐしぐし擦っている。
「残念。アールグレイアップルティー」
「そっちか」
ユウが私の向かいに腰掛ける。よく見ると化粧をしたままで、解けかかった髪にヘアゴムが引っかかっている。
「ずいぶんお疲れだね。なのに眠れないんだ」
うーん、唸った。ごくりごくりと紅茶を流し込み、頬杖をつく。窓の外では、風が吹き始めている。
「仕事も忙しいし、帰ってもやることあるし。明日は休みだから映画見てたら、寝れなくなっちゃった」
「早く寝なさいよ、映画なんか見てないで」
そうなんだけどさあ。口を尖らせる。
チクタクと時計が。静かな部屋に神経質なその音が今は少し煩わしくて、私は立ち上がった。冷蔵庫の上のテレビのボタンを押すと、ぼん、と音をならして画面がまばたきする。このテレビはユウが拾ってきた。分厚くて画面も小さいブラウン管テレビだけれど、今のところ不便に感じたことはない。
昨日ユウから送られてきたビデオをデッキに飲み込ませると、しばらくして寒々しい川の映像が映った。背後には車の走り去る音。どうやら橋の上から撮ったらしい。
「これは?仕事帰り?」
「逆、朝の。通勤の。見てなさい、朝日が登ってくるから」
朝日。画面は何が映っているのかよくわかるくらいには明るいのに、太陽はこれから登ってくるのだという。若干の手ブレ。たまに横切る自転車のベルの音、車の排気音、バイクのフカシ、そしてユウの寒い寒いというぼやきが、冷え切ったキッチンの床にぽとんぽとんと落ちていく。
映像に見入る私の横で、ユウがダルマストーブを引きずってくる。火種を探しているのでマッチを渡してやると、ユウがそれを擦るよりもはやく、ぱあ、と室内が明るくなった。日の出だ。小さなしかくの中で、日の出が。夕陽とはまた違う、この朝日は、黄色くて、でも少しグラグラ煮えていて、白かった空は照らされてあっという間に水色にきらめき出す。熱いなあ、と思う。触れたら、きっとあっという間に溶けてなくなってしまう。
冬の間、この小さな部屋にこもって眠ってばかりの私には、鮮やかで眩しくて。そのあまりの澄み渡りっぷりに、私の頭の中まですうともやが取り払われた気がした。薄荷的効果だ。
「どう。これでまた書けそう?」
「どうだろう」
暗がりがもぞもぞと身じろぎする部屋を見渡す。窓をあまり開けないから、ずいぶんくうきが澱んでいるみたい。壁の棚にも床にもたくさんの本、積み上げられた木箱にはスケッチブックと鉛筆、絵の具やパレット、埃をかぶったキャンバス。比較的整えられた机には、モニタとキーボード、積まれた紙、紙、紙−−。
そうして昨日のことをぼんやり思い出す。いや、昨日かどうかも、はっきりはしないけれど。この部屋では、時間は時間の務めを果たしていないように感じる。パジャマの伸びた襟ぐりみたいに、なんてだらしない奴らだろう……。
思考が流れる。ひとまずここは昨日でいい。
「昨日ね、小説を書いてた。そこの机でね、秋ぶりに。そしたら変な帽子をかぶった飴売りがしつこくチャイムを鳴らすからね、仕方なく家に入れてあげたの。お腹を空かせてたから、朝焼いたばかりのパンを出してあげたのね。そしたら私が目を離した隙に飴売りのやつ、勝手に小説読んでいて」
背中の大きな翼のせいでこの部屋が窮屈だったのか、何度も椅子に座り直すものだから、周りの本の山がなだれてぐちゃぐちゃ。こんなに落ち着きのない人がいるものかしらと思っていたら、あろうことかモニタに映し出された小説に講釈を垂れ始めた。壁に緑の唾がとんだ。
「しまいにはもっとたくさんの世界に触れた方がいい、君の世界は限定的すぎるって、怪しげな飴をたくさん置いていった。引き換えにリンゴジャムふた瓶も持っていかれちゃった」
食器棚を指差す。湖上の単葉機、砂漠の集魚灯、ニュートリノ的素描、仄仄雲母、などなど怪しげな単語が印刷された紙に包まれた飴玉が、無造作に積み上げられている。
「いらないの。食べないの」
ユウが言うから、
「食べない。怪しすぎるもん」
「じゃあ一つちょうだい」
物好きなやつだ。
「どうぞ。一つと言わず何個でも」
じゃあ遠慮なく、とユウは嬉しそうだ。ユウは、こういう得体の知れないものを見るとなんの抵抗もなく手を伸ばす。自分の世界では、あまりお目にかかれないのだと。そういう彼女の生きる世界は、私から見ると確かにずいぶんつまらなそうにも思える。
私の住まう街より、たくさん人がいて、来る日も来る日も仕事して、お金を稼いで、繰り返し、それも眠れなくなるまで。翼を持った人も、歌を歌うサイダー水も、時たま波打つ鏡もない。
だけど、タイヘン悔しいことに、ユウが送ってくるビデオはいつもキラキラしている、いつまでもいつまでも落ち続ける木の葉の悠久、飛行機の羽からまっすぐに伸びる白いもくもく、ざぶんざぶんと波間に点滅する白い鳥、永遠に晴れないかのような曇天と遠雷。
静かで一寸の変化もないこことは違い、彼女の世界はうるさくて、騒がしくて、でも。
「なんだかんだ楽しいのよ。綺麗で、ちゃんと不思議で、面白い」
「ふうん」
またこうして。と思う。ユウとは、たまに言葉がいらなくなる。
「それに、あなたの書く言葉があるから。結構ね、思い出すの、不意にね」
私の、書くことば。
「そう」
「紅茶、美味しかった。そろそろ、目は覚めた?」
立ち上がってテレビをオフにする。雪で真っ白の木立に帰っていくカラスの大群の映像が、横に引っ張られてプツンと消えた。
「そうね、もう少し冬眠していたかったけれど。でも、春も近いし」
ユウは眠そうだ。
「あなたに眠りをゆずる」
「ありがたく。春眠暁を覚えず」
「どういたしまして」
ユウからは、すっかり夜の匂いが取れていた。
じゃあ、もう帰るねと、ユウはベッドにもぐり込んだ。また、ビデオ送るから。もう少し、春まで、頑張るから。
もごもご喋っている。
春になったら、また、書いてよ、たくさん、ことばを、あなたは帷の向こうの−−なんだから。
ユウは眠った。明日の朝になれば、もういないんだろうなあと、うっすら思う。
ぬるくなった紅茶を飲み干して、もう一度湯を沸かす。パチリ、モニタの電源を入れる。椅子に腰掛けると、冬の間のお腹に溜めた冷気がひとすじの煙になって立ち上る感覚がした。
やかんがしゅん、しゅ、せつなげに息を吐く。煮えろ煮えろ、早く煮えろ。春が来る前に、花が次々咲き出す前に。
グラグラ沸いたその熱で、冬にピリオドを打てるように。