Column

酒場奇太郎 〜遭難〜
<前編>

岡本奇太郎

米軍横田基地のある街・福生の夜、旧赤線街は多国籍の酔っ払いたちで賑わっていた。あの夜も酔っ払い日本代表としていつものごとく調子に乗りまくっていたのが私だった。

福生の友人と国内屈指の歴史を持つ老舗ディスコ『EDDIE’S』で遊んだ後、地元の遊び人のたまり場『メディアタウン』に場所を移し、焼き鳥をつまみにバイスサワーを狂ったように呑んではいたが終電には乗った。しかし福生から当時私が住んでいた幡ヶ谷に帰るには電車で約1時間半、その間に乗り換えが2回ある。1回目の乗り換え地点・立川駅に降り立った時にはすでに視界がグルグルで、駅構内の案内板に視点も合わず、オロオロしているうちに上りの最終列車に乗り遅れてしまった。

立川駅から放り出された私はすぐに1台のタクシーをとめたが、運転手とまともに話すこともできない。とりあえず妻に電話し、妻も私が何言ってるかわからん状態に違いなかったが、「運転手に代って」と言われ、運転手と妻がこいつ(私)をどうするか交渉をはじめた。運転手からスマホを返され妻に聞くと、「幡ヶ谷まで1万5千円以上はかかるって言ってるよ。どうすんの?」と言われ、「歩いて帰る」と電話を切った。

「歩いて帰る」とは言ったものの幡ヶ谷まで歩いて帰るつもりではなく、酔いを覚ましながら幡ヶ谷方面に歩き、どこかで始発が動き始めたらそれに乗って帰るというのが私の作戦だった。今考えれば不思議で仕方がないが、私は「大体こっちやろ」と勘で歩き始めた。

一体どれくらい歩いただろうか。いつの間にか私はほぼ山の中にいた。「絶対こっちちゃうやろ」と思ったが、今更来た道を戻るのは負けた気がする。山の中でまわりに誰もいないので、「過去なんか振り返るか!とにかく前に進むだけや!」とあえて口に出したりしながら(大声で)ひたすら歩いた。

山中で叫んではいるものの、この頃にはまあまあ酔いも覚めて、めっちゃ寒いことに気づいた。時は3月。元々友人と遊ぶために福生に行っただけで、山歩きする予定もなかった私は、この日コーチジャケット1枚しか羽織っていなかった。

とにかく歩き続けるしかない。

すると私の眼前に色とりどりの電飾で光る十字架があらわれた。私はクリスチャンではないが、明らかに困っている今の自分なら教会も助けてくれるに違いないと思い、足早に建物に駆け寄ったが全く人の気配がない。それにしても、その十字架がきれいに見えたので写真に撮ってインスタのストーリーに上げた。と同時にスマホの充電がなくなった。

それまでも何度も妻から電話がかかってきていたようだが全く気づかず、挙句、ストーリーには謎の十字架。私の正確な居場所を確認するためにストーリーに付けられた位置情報と十字架を元に妻がググると、真偽のほどは定かではないが、韓国でカルト認定されている団体という情報が出てきたらしい。妻からすれば酔っ払いの夫が、韓国でカルト認定されている団体の十字架の写真をあげた後、音信不通になったということになる。高嶋政伸なら「姉さん事件です!」という案件かもしれないが、残念ながら私は『HOTEL』ではなく山の中にいた。

一体どれくらい歩いただろうか。その頃には〝ほぼ山の中〟ではなく〝完全に山〟だったが、屋根付きのバス停が目に入ったので、自分はまだ人が生活するエリア内にいるのかと少し安堵した。もう歩くのも疲れたし、ここでバスが来るまで寝るとするかとベンチに横になって10分。寒すぎてとてもじゃないが眠れない。たとえ自分の行く先が幡ヶ谷方面じゃないとわかっていても、歩いて体を温めるしかなかった。

眠気と疲れはすでにマックスに達していた。

もしこの先、ひと気を感じる場面に遭遇したら必ず助けを求めようと思ったがここは山。鳥の鳴き声しか聞こえなかった。半分寝ながら歩いていると前方から1台の車が来ることがわかった。しかしこんな山の中で「助けてください!」と突如中年男が立ちはだかったら、運転手はなんと思うだろうか。完全に狂ったヤツだと思われるに違いない。それは恥ずかしい。なんて自問自答している間に車は私を通り過ぎてしまった。ということが2回あった。次こそは絶対にと心に誓ったが、それ以降、車を見ることはなかった。

<後編>に続く

Creator

岡本奇太郎

美術作家/ライター。雑誌編集者時代に担当した吉永嘉明氏(『危ない1号』2代目編集長)のコラージュ作品に影響を受け創作活動を開始する。以降、様々な手法を用いた作品の制作、雑誌・Webメディアの原稿執筆等、カタチを問わず創造力捻出中。