「ヤギオ」
私は背後からの突然の声に驚いて、すぐに後ろを振り返る。そこに立っていたのは、1人の女性だった。大きめの服を覆い被ったようなだらりとしたいでたちで、冬の寒さのせいか、体中に布を巻き付けたように、全身がごわごわとしている。帽子とマフラーの間からわずかに見える目鼻は、夢の中に現れたにしては細部まではっきりと見ることができ、穏やかな雰囲気を感じとることができた。
「ヤギオって、さっきの山羊ですか?」
「そう、山羊の名前。オスの山羊だからヤギオ。彼は名前呼ばれても自分がヤギオだとは思っていないし、嫌だとも思わないでしょ。でも人に名前を聞かれるから、わかりやすい名前にしたの」
どこか聞き覚えのある軽快なしゃべりに、また懐かしさを感じながら
「確かに、山羊なら自分の名前を気にすることなんてないですからね」と返した。
女性は遠くの空をぼんやりと見ている。
「すみません、自己紹介がまだでした。私、○○○○と言います。よければお名前聞いてもいいですか?」
女性は、私の問い掛けに少し驚いた様子で、「はい、○○サヤカっていいます」と答えた。
胸のあたりから口元もとまで巻かれたマフラーの奥で微かに洩れる声から、かろうじて下の名前だけを聞き取ることができた。
「なんだか見覚えがあるのですが、どこかでお会いしたことがありますか?」と私は尋ねた。
「どうでしょう。時々、あなたくらいの年齢の人が訪れるんですよ。今日は、山羊を見に来たの?」
「いえ、駅に行きたくて。歩いていたらこちらに来ていました」
「なるほど。きっと、前にも来たことがあるんじゃないかな。駅まで行ったことは?」
女性はマフラーを下げ、ニコっと笑い、白い息を吐きながらこう言った。
「そうかもしれません。でも、駅まではまだ」
「そう」と小さな声で、女性はうなずいた。
私は夢の中で、何かを思い出そうとしていた。
以前、何度も同じ夢を見ていたことがあった。
もう20年も前のことで、不思議な村に迷いこみ、近くの駅を目指す夢だった。1人で設計事務所をはじめて3年がたった頃、夢中で図面を描きながら、いつの間にか椅子にもたれて眠っていることがあった。お金もなく、真夏でも扇風機だけの蒸し暑い事務所で仕事に熱中していたことを思い出す。
そのころに立ち上げた設計事務所は、今も同じ場所で続いている。仕事場として使っている養蚕小屋は、当時から手をかけて改修を繰り返していて、古ぼけて色がかすんだ青色のトタンの波板に、新しそうな銀色の波板と透明のポリカーボネートの波板がコラージュされた外観が、経過した時間の長さを物語っていた。
下屋が突き出しているバシリカ式の教会堂のようなシルエットの建物は、このあたりの地域では、農家の庭で納屋として使われているのを時々目にする。屋根には薄汚れて苔の生えたボロボロの瓦が敷かれていて、築年数が経ち、屋根の重みに耐えられずに崩れかけたものも少なくない。
周りの古い建物は、この10数年で建て替えられたか解体されてしまい、私の事務所がこのあたりでは最も古い建物になっていた。20年間、自らの手で改修工事を続けたおかげで、今でも壊れることなく使うことができている。
長く続く工事の中でも、植木鉢を並べて舗装したオリジナルのアプローチはお気に入りだった。その脇に植えられた多種多様な植物たちが、味わいのある庭を彩り、訪問者は道路から延びる手作りの丸い模様のアプローチを抜けて、わくわくした気持ちで事務所へと入る。
下屋に取り付けられたアルミサッシの吐き出し窓が入口で、そこはサンルームのように日当たりがよく、長い間に少しずつ集められた大小いくつもの観葉植物が、気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。日光へ向かって葉を大きく広げたモンステラや、サラサラと風になびくエバーフレッシュは特に大きく育った。2階の窓際には、とげとげしくもかわいらしい見た目の小さな多肉植物たちを並べて楽しんでいる。
1階の仕事場は、20年分の仕事で増え続けた資料やたくさんの模型などで埋めつくされ、一見するとごちゃごちゃした雑貨屋のようになっていた。2階まで吹き抜けた空間の壁一面の本棚には、漫画から小説、学術書までが並べられていて、棚に沿って添えられた赤い鉄骨製の階段がオブジェのように斜めに架けられている。2階の窓から吹き抜けを通して落ちる低い太陽の光が階段と交差して、いつも決まった時間に土間を明るく照らしていた。
この20年間で従業員も雇い、何度か入れ替わった。最近は、ゲームと音楽が趣味の若い従業員が、私が子どものころに流行っていたテレビゲームのテーマ曲をBGMで流している。
それぞれの能力を身に着けたメンバーがパーティーを組んで仕事に立ち向かう日々は、まるでRPGの冒険者の気分だった。10時と15時の休憩には、打ち合わせ用の6人掛けのテーブルで、スタッフが淹れたコーヒーを飲むことが日課となっていた。ごぼごぼと音をたて、白い湯気とともにコーヒーの香りが立ち込める。
私は読書をしながら、手元に置かれたコーヒーをじっと見つめる。黒い液体の表面に反射して映り込む太陽の光が眩しく、カップの中の世界にスーッと引き込まれていき、いつの間にか浅い眠りにつくのだった。