空は青紫色になりかけていた。
モルタルが詰められた植木鉢を地面に埋め込んだという、凸凹とした舗装の上を歩き、ようやく敷地の端の道路との境界までたどり着いた。後ろを振り返ると男性の姿はなかった。高揚した気持ちから冷めて、庭に植えられた植物に見守られながらこの場所に別れを告げた。
駅へとつながる道路と庭の間は、腰高のコンクリートブロック塀で仕切られている。不自然に切り取られた幅2mくらいの出入り口から、境界線を跨いで駅へとつながる道路へと足を踏み出した。
アスファルトのごつごつした感触が靴底から伝わる。それと同時に、地面に強くひっぱられるように体の重みを感じた。60㎏程の体重がずっしりと重く、おぼつかない足取りで、道路沿いに延びる無機質なコンクリートブロックの塀にしがみついた。手に残るざらざらした固いものを触れている感触と、体が地面に吸い込まれていくような重さを覚えながら、目の前がぼやけていく。
そのうち、何も見えなくなり、真っ暗な闇の中へと吸い込まれていった。蝉の声が降りしきる夏の夕暮れ。地面からモワモワとした熱気と全身にまとわりつくジメジメした湿気が皮膚に伝わる。痛みや苦しさはないが、やがて意識が薄れていくのがわかった。
「メ~~」
山羊の鳴き声に気が付く。ぼんやりと脳が動き出し、朦朧とした意識が戻ろうとしているようだった。少し離れたところから蚊取り線香の香りがする。子どものころに時々家族で出かけた田舎の親戚の家思い出す。
ガタンガタンガタンガタン…
電車の音で目が覚めた。そして椅子にもたれている自分にようやく気が付く。
目の前にはキーボードとパソコンの画面に、積み重なった紙の資料の束とコーヒーカップが置かれた仕事中の机の見慣れた風景だった。背中から強い西日が室内に入り込み、建物中が熱気で満たされていた。浅い眠りにつくと、時々夢に現れる知らない村にまた迷い込んでいたようだ。暑さに耐えられず、立ち上がって近くの扇風機のスイッチを入れる。束になっていた紙が風でバタバタと音鳴らして揺れ始めた。
北関東のとある町に建つ古い木造の建物が私の事務所で、3年前に自ら立ち上げた設計事務所で仕事をしている。実家の敷地内に建っていた養蚕小屋を6年前から少しずつ手を加え、改修をしながら使っている。
大きな掃き出し窓のおかげで、建物の中はいつも明るく、私の席からは左右と背面の窓から外の景色がよく見えた。正面はアクリル板の透明な間仕切りで区切られ、デスクトップの画面の向こうに壁一面の本棚と、朱色の鉄骨階段が見える。どこかで見たことのある光景は、夢の中で何度も訪れたあの場所に似ている。
「あ、起きました?」
階段から誰か降りてくる。時々、事務所に来て2階で本を読んでいく村田さんという女性だ。
「来ていたんですか?気が付かなくてすみません。いつの間にか寝ていました」
頭を掻きながら、少し恥ずかしそうに言うと、
「こちらこそ、いきなり来てすみません」と謝られた。
村田さんは都会から移住してきて、ここから少し離れた町で1人暮らしをしているらしい。一度、知り合いと一緒に遊びに来たことがきっかけで、今では、電車に乗って1人で訪ねてくるようになった。
事務所を初めてから2年目の夏に山羊を飼い始めたことで、たくさんの人が事務所を訪れるようになったが、頻繁に来るのは数人で、そのなかでも遠慮なく来るのは彼女だけだった。都会育ちの人には、庭に山羊がいることが特に珍しいのだろう。手作りの柵に近づいて、その辺に生えている草を抜いて、山羊に与えている様子を何度か目にしたことがある。
山羊の首輪の金具がきらりと光り、夢の中で登場する山羊の姿が頭をよぎる。そんな時、こいつは想像と現実を行き来して、私の世界に入り込んでくる山羊の姿をした悪魔、バフォメットだと、くだらない妄想をしたりする。
「よかったら、コーヒーいかがですか?」
せっかく来ていただいたので、おもてなしをしようと声をかけた。
「いただきます。どこのですか?」
「詳しいですか?近くのスーパーで安売りしている豆ですが、よければ」
「まったく詳しくないですよ。コンビニのコーヒーが1番好きです」
と明るい声で返された。村田さんは、いつも遠くを見ながら適当な会話で軽快に話してくる。どこかで本心を隠している、つかみどころのない人だった。なので、私も適当な会話で彼女との距離を保っていた。
「コーヒーをいれるので、あそこで待っていてください」
と言って、打ち合わせに使うテーブルの方を指した。
テーブルには異なる種類の椅子が並んでいて、彼女は一番手前の席について、持っていた本を読み始めた。私は冷蔵庫から豆の入った瓶を取り出し、機械に豆と水を入れ、スイッチを押した。機械からゴボゴボと水が暖められる音がして、やがて湯気が噴き出した。強いコーヒーの香りが立ち込める。
再びのデジャブだった。