夏の強い西日は夕日へと変わり始めていた。空は刻刻と明るさを失い、外の木々が長い影を落としている。掃き出し窓を突き抜けて、地続きに木陰を作り、建物の中と外の境界はなくなっていた。
「夕暮れがきれいですね」
打ち合わせのテーブルでコーヒーを飲みながら本を読んでいた村田さんが、外を眺めてつぶやいた。
デスクトップで図面を描いていた私は、椅子の背もたれに寄りかかり一息つくと、椅子の向きを右に70度ほど回転させて、背後の窓に手を伸ばした。西日を遮るために閉じていた薄いレースカーテンをゆっくり開くと、先ほどまで太陽の日射でまぶしかった空は、薄く引き伸ばされた水彩絵の具のように鮮やかな群青色に染まっていた。木々の隙間から見える遠くの山に向かってピンク色へと変わるグラデーションが、日没までの時間を教えてくれた。
「いい空ですね」
と無難な反応で独り言のように答えた。
そんな時、気の利いた言葉が返せたら良いのにと思いながらも、気恥ずかしさや、相手に気持ち悪がられるのを恐れて、いつもつまらない返答を繰り返す自分がいることに気が付く。
そして自分の本当の答えを探すが、すぐに思いつかない自分に一瞬の絶望を抱く。直前まで無心で図面を描きながら、設計の作業に没頭していた脳が急な切り替えに追いついていないのか、そもそも空に対しての感動などなかったのかもしれない。
横目で村田さんを見ると、まだ空を眺めていた。何かに思いを馳せるように無防備な表情で、遠くの一点を見つめていた。彼女も「きれいな夕暮れ」などと言ったが、そんなこと思っていないのかもしれない。別のことを考えていて、何かに気が付いてほしくてそんなことを言ったのだと漠然と思った。
知り合ってまだ間もないということもあるが、彼女がどんな人間なのか、まったく知らない。知る必要もないと思っていたし、知るすべもなかった。
「空なんて、だいたい同じですよね。昼は明るくて夜は暗いし、朝と夕方になれば赤くなる。その繰り返しですよ」
彼女がこちらを見ながら言った。
先ほど口にしたことと反対で、素っ気ないことを言っている。だから、彼女のことはよくわからないし、知ろうとしても上手くかわされてしまう気がするので、知らない方がいいと思った。知ってしまうと、彼女は来なくなってしまうのではないかという、小さな予感を抱いていた。
「そうかもしれません。雨や雪は空の表情を一時的に変えてくれますが、結局同じですね」
曖昧な同意をして、今日も彼女との距離を保つことにした。
「コーヒーのお代わりどうですか」
テーブルに置かれたカップが目につき、話をそらすように尋ねた。
「ありがとう。でも、暗くなってきたのでそろそろ帰りますよ」
思っていた通りの答えに、私は安堵した。
彼女に帰ってほしいと思った訳ではない。電車の時間に合わせて、いつも同じ時間に帰ることはわかっていた。変わらない彼女の行動を1つ確認できたことが嬉しかったのだ。
村田さんは飲み終えていたコーヒーカップをテーブルの中央に動かし、読んでいた本をたたんで、床に置いていた白いリュックサックを膝に置き、本を中にしまった。
「じゃ、また来ます」
と言いながら立ち上がって、リュックサックを背負う。
「じゃあ、また」
と言って、私は手を振った。
カンカンカンカン…と踏切の音が遠くで鳴っている。彼女が乗る電車が18時32分に駅に到着する。少し早歩きで駅へ向かう彼女の姿を、仕事場の椅子に座って見送った。
しばらくして、ガタンガタン…と電車が近くを通り過ぎていく音が聞こえた。
天を見上げると青と赤のグラデーションはコントラストが強まり、西の空が真っ赤に変色している。電車からも同じ空が見えているに違いない。空はどこまでも繋がっていて、遠くにあるどこか、あるいは離れて暮らしているだれかに思いを馳せるためにあるのだ。
今日の村田さんがきっとそうであったように。と私は思った。