Column

元気よりも淡々と

PEANUTS BAKERY laboratory

昨年1年間の連載、そして1月号にも掲載していただいたが、2月号の連載には文章を寄せることはできなかった。

前々回の締め切りから次の締め切りの間に、職場で毎日顔を合わせていた上司が、ある日突然来なくなり(毎週パンやお菓子を買ってもくれていた)、しばらくして脳の疾患で倒れたようだと知る。また、以前勤めていた菓子屋の会長が亡くなったと連絡がくる。菓子を卸している喫茶店のマスターがコロナにかかり、注文が止まった。そのうちに寒波が襲来し、寒さに負けじと奥歯を噛み締めながら能面のような日々を過ごしているうちに、ある日、転倒して利き手親指を捻挫した。その時に、落ち込みメーターが振り切れた。

手を使う仕事をしているということもあり、独居なので働けなくなったらどうしようもない。手が不自由になったことから<不安>がもくもくと心に立ち込めた。

ふと沢木耕太郎さんの『凍』の中で、登山家の山野井妙子さんが凍傷になり第二関節より先の手指を10本切断した手で、布団の上げ下ろしや裁縫をしていたというエピソードを思い出す。当時の壮絶な状況で、実際、本人の心の中は分からないけれど沢木さんのいつもの簡潔な文章でカラッと綴られ、ユーモアさえも感じてしまう。武田百合子の『富士日記』にもある、自分だけでなく夫や飼犬にも不用な感情移入をすることなく、ただ目の前の風景を写生するように向けているあの視点。

ヨガ教室に通っている。たくさん話をしてくれる先生なので、理屈で納得したがる自分には相性がいい。年始のレッスンから、帰宅後すぐ話の内容とポーズの流れを文字に起こし、プリントアウトしてノートを作ることにした。レッスン中にメモをとるわけではないので、記憶して箇条書き程度だ。以下最近のノートから。

・メタ認知(自己に対する自分の認知を第三者のように更に高次の視点から俯瞰さして認知すること)
・身体の上に脳(心)が乗っかっている
・心に身体が引っ張られないように冷静に俯瞰する
・脳を鎮めることがヨガの最終ゴール
・冬は腎を温める
・過去でも未来でもなく今に意識をおく

ここらへんにヒントがありそう。不安に暗くなる心と自分の身に起こった事を、ただの事象と切り離して捉えられたら。 

轟音のために原稿を書くことは、集中力がとてもいるしランニングより苦しいのだけど、自分のトレーニングにもなっている。今年はもう原稿を落としたくない。

2月に入り捻挫した指もある程度動くようになり、気温が上がるに応じて自ずと落ち込みからは這い上がってきた。心身に不調が起きた時に感じる孤独は、自分ひとりで受け止めるべきことで、結婚していようが子どもがいようがきっと変わらないだろう。だったら今出来ることは、好きなことに存分に集中して打ち込める時間を長く確保できるように、健康であることが何より大事なんだ、と感じている。

さて、2月は幾つかよいこともあった。

(1)車のタイヤの空気を自分で入れられるようになった。セルフスタンドのおじさんが丁寧に4本の内の1本を実演して教えてくれた(普段自分の興味のある事柄にばかり執着しているので、それ以外の分野で出来る事が増えると不意に人生に爽やかで新鮮な風が流れてきたような、ハッとする嬉しさ)。

(2)卓上ガスコンロで食べる鍋のおいしさを知る。昨年、ガスコンロを購入した。食事用途ではなく、IHでは使用できない銅鍋を使ってカスタードクリームを炊いたりする為なので、それ以外には使っていなかったのだが。

以下、2月24日時点での1番好きな食べ方と流れ。

おいしい鍋


【材料】
・なんでもその時にあるもの。旬の野菜。冬なら白菜、長葱、にんじん、えのき、里芋(皮付き)小松菜などをざくぎりにする
・生姜やにんにくがあればみじん切り
・木綿豆腐
【作り方と流れ】
・全部を土鍋にいれて胡麻油を回しかけ塩をふり、蓋を閉める
・風呂に入る
・着替えて化粧水などをしたら、鍋を食べる器に一杯の水と醤油適量を入れて鍋に注ぎ蓋をして火にかける
・髪を乾かす
・先程使ったまな板や包丁、弁当箱や水筒を洗う
その頃には鍋から湯気が出ていい具合。最後に白胡麻を擦って振りかける。ガウンを羽織って席に着き、器によそって玄米黒酢をつけていただく(時に爆笑問題のコントYouTubeを観ながら)

だからなんなんだ。誰の役にも立たなさそうだけど、飽きるまで日常をルーティンしたい私には、今最高のレシピと流れ。日によって豚肉を足したり、卵を落としたり、豆板醤で辛味を付けたりと自由自在。最近まで粉末の粒状中華の素やコンソメを入れたりしていたけれど、使わなくても塩と胡麻油があれば充分。野菜って甘い。すでに食材が調味料になっている(関係ないけれど、近頃の果物に関しては糖度の高さばかりが目立ち、ちょっと気持ち悪いくらい。当たり外れがあった時の酸っぱい蜜柑や葡萄とか恋しくなる)。

さらに何しろ目前で火が燃えているので、周りの空気も顔も温かくて、それだけで本能的な幸福感に満たされていく気がする。

(追記:その後、白菜で発酵白菜を作り始めた。キムチは材料を揃えるのに挫折するが、これは塩と白菜だけ。簡単で止まらなくなる旨味。これも鍋に欠かせなくなった)

最近、偏頭痛にはオリーブ油もよくないと知ったのは残念だが、そのかわり大豆をたくさん食べよう。自分の偏頭痛の話がよく出て申し訳ないが、きっとそれぞれ体質や持病に合う食べ物があるはずで、それを見つけて調理したら、多分それが本当に自分がおいしく感じる食事なんだと思う。

こん風なケの食事をしていたら、味覚が変わっていくだろう。

今年作るパンや菓子にも影響が出てくるに違いない。矛盾するようにオールドファッションもクレームブリュレもパート・ド・フリュイも大好きだし、いつまでもきっちりと甘さが効いてるそれらを愛しつつも、脳ではなくて雰囲気ではなくて、身体が求めるものが作れたら嬉しい。自分の舌を信じて誰にも媚びずに出てきたものが、どんなものになるか楽しみになってきている。

Creator

PEANUTS BAKERY laboratory 長谷川渚

1980年生まれ、神奈川県秦野市存住。パンを焼き、菓子をつくり、走る人。開業準備中。屋号は幼少期から常に傍らに居続けるSNOOPYのコミックのタイトル、及び秦野市を代表する名産物である落花生から。「laboratory=研究室」というと大袈裟な聞こえ方だけれど、かちっと決めてしまいたくない、常により良さを求めて試行錯誤する場所、自分でありたいという思いを込めて。