Column

繰り返す太鼓のリズム
第2章

PEANUTS BAKERY laboratory

◇ マラソン大会前日(27時間前:7時30分)
秦野市を出発。体調も回復し、お祭りに向かうようなわくわくした気持ち。車中でSpotify My Top Songs2023を流す。今年自分の聴いた好きなミュージックばかりを聴きながらのドライブは実に楽しい。

◇ 19時間前:14時過ぎ
予定通りに宿泊地に着く。扉は全部閉まっている。別棟の小屋の引き戸を引いた途端タバコのヤニ臭い部屋の中で寝そべっている男がこちらを向く。「ヒーッ」心で絶叫しながら(楳図かずおの漫画の登場人物に描かれるあの表情を思い出して欲しい)説明すると、宿のおかみに連絡をとってくれた。電話をきるとタバコ小屋から出てきて「おかみさんは買い物中で宿はもう少し先だから車に乗って案内しろと言われたので乗せてください」と言う。

タバコの臭いが人の形になってるんじゃないかと感じるこの人を自分の車に乗せるなんて絶対に嫌だったし、恐怖もあり、早口で「教えてくれたら自分で行きます」と伝えたが、らちがあかず同乗させるはめになる。悪夢……。とりあえずはやくこの魔の時間を抜けるために急いで車を走らせて300mくらい先の宿へ着く。観光案内の情報と全く違う。どうなっているのか。「おれは海の方だから(宿のことは分からなくて)」と言っている。漁師なのか?

民宿なので一軒家だがドアを開けたら今度は犬の獣臭さが充満していて鼻が潰れた。30年位前は犬を飼ってる友達の家なんかに遊びに行くとこんな匂いがしていた気がするが、耐えがたい。男に代金を渡すと釣りがないのでおかみさんが買い物から戻り釣りを持ってくるまで部屋でのんびりしていてくれ、と薄ら笑いしながら言ってくる。

荷物を置いて辺りを散策するつもりだったので困ったが、15分位で真っ赤なパンチパーマのおかみが来た。釣りと領収書をもらい、後はどの時間でも自由に出入りして良いということで2人が帰っていく。

部屋は無臭だった。一連の出来事の成り行きを飲み込めない、観光協会にこんな宿を載せてはいけないですよ、と伝えたい気持ちでいっぱいになる。今回、特に安価な宿を求めた訳じゃない。マラソン大会のホームページにリンクされている観光協会の宿リストから予約しただけだ(海岸端の民宿は一律同価格だった)。部屋を出る時はエアコンを消すようにと書いてあったが、寒いと更にうら寂しい気持ちになるのでつけたまま、とりあえず金目のものはウエストポーチに詰めてそれ以外の荷物を押し入れにしまい外に出る。

◇ 18時間前:15時30分頃
車に再び乗り窓を全開にして、タバコ臭を追い出しながら目当ての古書店に向かう。割と広く、地域のフランチャイズのようだが本が段の手前と奥とで二重にぎっしり詰める収納スタイルだし雑誌コーナーの下段にSTUDIO VOICEと別冊太陽とananが並ぶのを発見するだけで心躍るがそれも束の間、10分後くらいに作業着の爺さん達(仲間)、中年男性が入店してくる。

中年が私のレーンにチラッと入ってきたがすぐに裏の書架に戻っていった。私の見ている小説コーナーの奥の行き止まりに18禁コーナーを小さく設けているのでそこに行きたいのだと思った。気にしてないで行けばいいのにさ。爺さん達からはまた衣服を何日も着続けているような臭いがする。

この地に来てからずっと匂いにやられっぱなしだ。普段から様々な臭いに過敏なたちで、あらゆる匂いから逃げている。永遠といられそうだったこの店も早々に退散することになる。ただ村上春樹が『ノルウェイの森』を書いたあとに出した旅行記、『遠い太鼓』が安価で状態も良く手に入ったのでとても嬉しくなる。

◇ 7時間前:16時30分
早めに夕食を食べるために事前に調べて置いた定食屋へ向かう。豚焼肉定食を食べたが先程までに身に降りかかってきた一連の臭い事件の後遺症で鼻がまずやられ、それに伴い味覚と気力が完全に削がれ全く味を感じることができなかった。ただ味覚が普通でもさほどではない気はした。

スーパーで飲み物など買い宿に戻ると、洗面所で歯ブラシを洗っている若い真面目そうな男性がいた。軽く挨拶して部屋に戻る。マラソン大会に出場予定で女性と2階に宿泊する様子。この悪夢の館で一晩過ごすのがひとりきりではないことに心から安堵する。なぜか廊下の犬の臭いも消えていた。すぐに風呂に入る。一応男女別だが先に使った形跡が感じられ、これにも安心を覚えるが脱衣籠はホコリがたまっていたので本当に油断できない。パジャマを小さく小さく折り畳みきれいそうな洗面所の縁に置く。

◇ 13時間前:20時
部屋に戻りゼッケンをシャツに留めたりシューズの紐に計測チップを通したりと落ち着いて明日の準備を整え、早々に布団にもぐる。真上の電気のカサの中に動いてはないが虫とか蛾の影が見えて心が冷える。畳と布団だけは清潔感がある様子なので気が休まる。いずれにせよ、暖かい部屋、温かい布団に身を横たえて眠りにつけることはありがたいことだ。

◇ マラソン大会当日(6時間前:3時)
左の鼻の奥から嫌な予感が喉まで流れ込み、目を覚ます。電気をつけて確認すると予想通り鼻から血が出ている。何度かこれまでもあることだったので慌てることはない。1日の極度の緊張と疲れが眠っている間に一気に緩み、血管が広がってその拍子に細かな血管が切れただけだ。と心の中で説明して落ち着かせて再び電気を消して横になる。止まるまで上に顔を向けていたいが、あの電気のカサと相対したくないので30度くらい顔を斜めにする。

◇ 4時間前:5時30分
夜明け少し前に宿を出て、目の前の海水浴場で海を眺めながら朝食をとり大会会場へと向かう。

◇ 3時間前:7時過ぎ
指定駐車場から会場までの送迎バスに次々と参加者が乗り込んでくる。15分程の道中、車内は湿布の匂いで充満。この旅はいつまで匂いに苦しめられるのか(この後会場のホールも湿布臭でいっぱい。私もいつか湿布を貼りながら走るようになるのだろうか)。

外のセレモニー会場で開会式の前に地元の和太鼓チームの演奏が行われた。太鼓の音とリズムが胸に響いてくる。少年、少女の息づかい、頬に赤みのさしたきりりとした表情、ばちさばきが間近にいるので真っ直ぐに伝わってくる。掛け声は大人のように太くなくてまだ細くて若い。今から真剣に限界に挑戦しながら走ろうというレースの場に太鼓ほどふさわしい音楽があるだろうか。演奏中に涙が一瞬溢れる。

その後、増田明美さんとゲストランナーであった森脇健二さんとの軽妙なトークに切り替わる。増田さんは受付場や待機ホールでランナーに声を掛けたり、折り返し地点にいたり式典会場にいたり、とにかく私達と同じようなところでずっと動き回っていらした。鈴の声を持つ可愛らしい方で、この小柄な女性が現役時代に日本と世界の記録を合わせて14回も更新してきたなんて信じられないようだ。マラソン選手って割とキツめのイメージがあったので。この日に一気にファンになった。

ホールが待合所になっており、暖かく座席も充分にスペースがありゆったりとスタートまで準備をする。

第3章へ続く。

Creator

PEANUTS BAKERY laboratory 長谷川渚

1980年生まれ、神奈川県秦野市存住。パンを焼き、菓子をつくり、走る人。開業準備中。屋号は幼少期から常に傍らに居続けるSNOOPYのコミックのタイトル、及び秦野市を代表する名産物である落花生から。「laboratory=研究室」というと大袈裟な聞こえ方だけれど、かちっと決めてしまいたくない、常により良さを求めて試行錯誤する場所、自分でありたいという思いを込めて。