Column

続・ランニング、雑感

PEANUTS BAKERY laboratory

みかん色の澄んだ空

走り始めて1年経った。

12月4日良く晴れ渡った日曜日、初めてマラソン大会というものに参加したものの、この12月に入ってからの急な朝晩の冷え込みはつらく、夜は早々に湯たんぽを入れた布団に潜り込み、朝はぎりぎりまで毛布にくるまり、オールドファッションもポテトも相変わらずよく食べた。つまりたかが1年じゃ好きな食べ物も、できれば疲れることよりぬくぬくしていたい気持ちに流されてることも変わらない。

路上に一歩踏み出し走り始めれば、12月の冷えて澄んだ空気が肺に取り込まれ、昼の水色と夕方のみかん色が重なる二層の空を目の前に、気分がよくなることを想像はついていても。

憧れの方から「趣味を持ちなさい」と言葉を頂いたことがランニングのきっかけだ。半信半疑ながらいつまでもサカナの小骨のように引っかかっていたその言葉とタイミングが合致した冬の始め、昨年の11月15日、着の身着のままに走りだした。

20ほど歳上の方の言葉の意味を体験して、身体で分かってみたかった。本などの情報からではなくて、生身のヒトとのコミュニケーションの中から、その通りにやってみようと自分が感じるほど心が動いたのは久々だった。

走ることで、傾いたエネルギーが中庸に戻ってくる、ということにはすぐ気づいた。走り終えたあと、心はツルンとむき卵みたいになっている。

物心ついた幼稚園から始まって会社勤めまでずっと、集団生活も誰かの指示に従うのも、そういうことが全部無理で無理丸出しのままなんとか生き延びてきたつもりだけど、きっと自分で感じてる以上に満身創痍だったんだろう。

走った時の表現しがたい解放感には、茅ヶ崎でお金を貯めて1人暮らしを始めた最初の日に、散歩して海辺の浜に立った時と同じくらいに感動した。

身ひとつで、人と合わせるでも、勝ち負けの世界でもなく、自分の好きなように好きなコースを誰にも気を遣うことなくただ<走る>という行為は、偶然だったにしろ求めていたことと合致したと思う。

走り始めて、どのように進めていけば全くわからない時期に「距離ではなく時間で走った方がよい」とアドバイスをもらい、30分だとか今月は40分、45分とか少しずつ走れる時間を伸ばしてきた。

自分の中でいったん決め事をしてしまうと「40分走れるようになったのに今日は15分にしよう。3kmこのコースだけにしよう」だとか、そういう融通を利かせることがなかなか出来なかった。何に関してもそうだけど、ルールの中で動くって上辺だけのことだったんだなと気づいたのはこの1、2か月のことだ。

走りながら自分の肉体に聞いてみる。肉体って、かなり我慢強くてほんとの気持ちをよっぽど静かに探っていかないと教えてくれない。たいてい感情が支配しがち(ルール通りにやらないと!)で邪魔してる。<体の声を聞く>とよくいうけれど、まだまだできていない。自然なことのようで難しい。上っ面ではなくて本当の大事なことを知りたいと思う。

健康効果の期待も虚しく、ランニング後は偏頭痛が起こることが非常に多い。走行中の緊張と走行後の緩和を引き金に、痛み物質が神経から放出される。全くこの点だけにはうんざりしてしまう。

半年程は川べりの芝の上を、フリスビーを追いかける犬のようにたった1人で走っていたが、その後公園のランニングコースを周回するようになり年齢性別多様なランナー達に混ざって走るうち、それまで全く個の状態が心地よかったはずなのに、他の人と走ることも楽しく思えてきた。バンビみたいに華奢な小学生に軽々と追い越されたり、パートナーと手を取り、歩行のリハビリをする人もいる。背中にプリントされた大会Tシャツを見るのも楽しい。皆自分のやるべきことをするためだけに、前を向いて進んでいる。自分と同じだ。

先輩ランナー達の後ろ姿を観察していると、皆、着地している時間が自分より全然短かい。なので軽やかに跳んでいるように進んでいく。他はバラバラだけどそこは共通しているようなので身につけるべきポイントだと考えている。

初めて参加したマラソン大会は、もう、浮かれてゴール後自撮りをするほど楽しかった(帰宅後は頭痛がやってきてすぐに横になった)。「何がそんなに」と考えたが、まだ答えはわからない。来年も走り続けながら考えてみたい。

Creator

PEANUTS BAKERY laboratory 長谷川渚

1980年生まれ、神奈川県秦野市存住。パンを焼き、菓子をつくり、走る人。開業準備中。屋号は幼少期から常に傍らに居続けるSNOOPYのコミックのタイトル、及び秦野市を代表する名産物である落花生から。「laboratory=研究室」というと大袈裟な聞こえ方だけれど、かちっと決めてしまいたくない、常により良さを求めて試行錯誤する場所、自分でありたいという思いを込めて。