Column

開心見誠の意

佐藤一花

心を開いて誠を見たい私。

夏の土用が明け、気のせいにしていた体調も機嫌もそこそこになっていた。動けば、動かない日々を過ごして、燃費のバラバラな時間が多い様に思ふ。特に色々な変化のある周りも多く、内観だけでなく、そわそわしている感じを察した。

日記を書きたいと思っていたが、サラリーの日常ってクソつまらんので辞めた。日常は中年の通る道、梅仕事や料理など、コレを書いている間も去年収穫した冷凍ブルーベリーの粒をポリポリ食べている。日頃、音楽にまみれている訳でも、ファッションづいてる訳でもなく、至って特異な事などない。

今回でWEB掲載が年末で終わる轟音も変化していく様だ。今までビジュアル系担当で、コラージュを毎回に近く披露していたが、また違った表現になって行くのかもしれない。自分よがり以上でも以下でもない書き方で書いていたが、正に個人的な世界に浸る事はとても面白い。

少し前に見た展示で、久しぶりに感動した服飾の展示が有った。日頃服飾学校出身が災いして、大分厳しめ目線で見ている訳だが、DIOR展規模なら拍手モノだが、半端だと座り込みで抗議したい位の気持ちで睨んでいる。

『ここに いても いい リトゥンアフターワーズ 山縣良和と綴るファッション表現のかすかな糸口』は、静かながら服を作る事が楽しいのだと云う気持ちを再燃せてくる様な素晴らしい展示だった。

服作りとファッションにおいて、いつもテンションが違う方向に引っ張られたままな気がする。手仕事や地方の技術生産者から成り立っている服作りと有名人やインフルエンサー等が絡むパーティの様なファッション。同じであって、同じではない方向に牽引されていく。

今回の展示は、正に前者を凝縮した様な面白い展示だった。見終った時には、当時服を作れなかった自分がそれに触れ、ワクワクしていた学生の頃に戻った感覚になれた。それは、少し情熱も湧いてくるような不思議な感覚になった。自分も今は退いてしまった業界に対して、未来を感じない部分も有ったけど、それを払拭する様なパワーを持っていた。

展示は、色々な日常にある様々なモノを再構成させて、そこに山縣氏が制作した服が入り混じり、見ごたえがあるものとなっていた。私が好きだったのは、軽トラに無数の狸の置物が服を着せられ、スケボーに乗っている場面だ。集団の妙の様で、三十三間堂の様に自分探し、私達を風刺されている様だった。そして世の中にある矛盾を様々な形で、風刺してく。私達がどう云う世の中に存在し、周りをがんじ絡めにされているか、それをしているのは自分だと云う事も含めて、教えてくれている。自分のコンプレックスも突かれている、そんな気分だった。

吊るし雛の様な空間に赤子の声、ランウェイの様に並んだ服、寝かせられたマネキン達は、其々に個性を放っている、シルエットや素材も細やかに自由で強さがある。古いマネキンやブルーシートの中で儚い夢を見ている様な空間は、華やかさだけではない日常のリサイクルショップの楽しさが混在していた。

服の袖を通す時の高揚感、素朴又は贅沢に感じる素材感や、パターンなど、服には色々な魔法が存在していると思ふ。それは女性だろうが男性だろうが関係はなく、安い量産の服達からは感じられないものだが、更には高い安いでもない、昔作って貰った愛おしい服などと似ている感覚だろう。

着られなくなっても愛おしい服って分かります?
脅迫行動の様に人としての品を保つこと。
服を通して、何を感じますか?
嫌な場面は強烈故に心に残るけど、そこばかり見ず、視点を変え良い部分を見つけていく方が自分の身の為だと、痛烈に感じた良い展示だった。

余談だが、好きなデザイナーである津野青嵐氏の行っていた学校が山縣氏の主宰するcoconogaccoと知り、また勉強したい気持にもなった。

佐藤一花

Creator

佐藤一花

1979年群馬県生まれ。文化服装学院卒業後、アパレル生産管理、販売などを経て、現在のオフィスアートレディ活動に至る。イラスト・コラージュ・立体作品を制作。群馬、東京、埼玉など全国各処で展示を開催。