コーヒーの香りが微かに漂っている。都会のしゃれたカフェの甘い匂いとは違い、苦みのある深いコーヒーの匂いだ。コーヒーに特段詳しいわけでもないのに、知っているような気にさせる。
私が座った席から、ちょうど正面にキッチンが見えた。キッチンにいる男性の目の前で白い湯気が吹き上がっている。もくもくと立ち上がる湯気は銀色の天井にぶつかって横に広がり、透明になって消えていく。やがてゴボゴボと音が聞こえ始めて、しばらくしてプシューっという音とともに勢いよく湯気が噴き出し、強いコーヒーの香りだけを残して湯気は見えなくなった。もうすぐコーヒーをもって男性がこちらに来ることはわかっている。少しだけ緊張している自分を隠すように、掃き出し窓から見える庭の方をぼんやりと眺め、平常心を装った。
間もなくして、男性が四角い木のお盆を手に持って現れた。黒と白の2つの陶器製のカップがのせられている。
「お待たせしました」
男性はそう言って、持っていたお盆をテーブルにのせて、白いカップを私の目の前にそっと差し出すように置いた。
「どうぞ、コーヒーです。よかったら飲んでみてください」
小さな声で呟くように言って、私の向かいの席の木の椅子の背もたれに手をかけ、椅子の向きを少しずらした。
「ありがとうございます。いただきます」
カップの耳に手を架けながら、よそ行きの明るい声で答えた。
男性は椅子に腰かけ、お盆にのっていたもう1つの黒いカップを自分の右側に置き、カップに指をかけたまま、ファンバックチェアのような椅子の扇形の背もたれにもたれかけた。
私は男性の顔をちらっとみて様子を伺うが、男性はこちらを気にすることもなく、無表情で自分で淹れたコーヒーをじっと見ている。
男性「・・・・・」
私 「・・・・・」
しばらく無言の時間が続く。
男性「・・・・・」
私 「・・・・・」
私も手元に置かれたコーヒーをじっと見つめ、黒い液体の表面に反射して映り込む太陽の光が眩しく、カップの中の世界にスーッと引き込まれていくのを感じた。
私「・・・・・」
静かな時間が流れ、外からは鳥のさえずりが聞こえてきた。被せるように、山羊の鳴き声が微かに聞こえる。さらに遠くでは電車が走っている様子が分かった。コーヒーの香りはいっそう強く、口の中に溜まったよだれが甘い。建物の中に風が吹き込み、気温15度程度の肌寒さはあったが、西からあたる日光が透明の壁を抜けて優しく体を温めてくれていた。やがて目の前に座っている男性は存在が忘れられたかのように私の前からいなくなり、気が付くと私はその場所を全身で感じていた。
スススー
微かに音がして、前を見ると男性が右手に持っていたカップを持ち上げ、口に運んでいた。コーヒーを一口飲んでカップを元の位置にもどした。
男性「・・・・・」
男性は相変わらず一言も話さない。しかし、下を向いていた顔は少しだけ上がり、その視線は掃き出し窓の外へと向いているのがわかった。私のことが見えていないのだろうか、とさえ思わせるくらいにこちらを気にする素振りがなく、私も何も考えず、コーヒーを飲んだ。
鼻に近づけたカップからコーヒーの香りが体内に流れ込み、後から舌の先端で感じた苦みで体全体がコーヒーで満たされる。コーヒーを飲んだという意識だけで、コーヒーの味などどうでもよかった。男性がこちらを見て、ゆっくりと小刻みにうなずいていた。