WebマガジンGO ONも今号で一旦区切りをつけることになったということで、往復書簡も私の回で最終回となった。果たして往復書簡になっていたかどうかわからないが、楽しく書かせていただいた。短い間でしたが、マキタさん、ありがとうございました。
前回の弟の回では「混とん」という言葉が出てきた。混とん、全部漢字にすると混沌。この言葉で思い出されるのはここ10年あまり因縁のある街、マニラである。そこではデジタルとアナログ、繁栄と貧困、発展と停滞が渾然一体と混じり合っている。こう書くと若い頃猿岩石のヒッチハイクを見て混沌のアジアに憧れた世代には魅力的に見えるかもしれないが、ニッポンのサラリーマンとしてオシゴトで関わると大変なだけで、何度担当を降ろさせてくれと上司に泣きついたかわからない。そんなところが面白いといえば面白いのではあるが。
マニラ夜想曲
私が初めてフィリピンの首都マニラを訪れたのは、2013年1月のことだ。フィリピンの取引先と税金絡みの厄介な話をするから経理のお前も来いと国際事業部の部長に半ば強引に付き合わされた出張だったので、正直気分が乗らなかったが、大学生の時以来の海外だったので、少し楽しみでもあった。
ニノイ・アキノ国際空港を出ると真夏の暑さだった。特にこの時は真冬の日本から来たので温度差はより大きく感じられた。ああ、マニラに来たのだなと改めて思った。空港からはイエローキャブでホテルに向かった。車窓から見えたのは貧しいスラムのような町並みと、建築中の超高層ビルが混じり合った風景だった。高速を下りた後の道路は車で溢れてほとんど進まず、クラクションが間断なく鳴り続けていた。進まない車の間を縫うように、ペットボトルの水や土産物を持った物売りが徘徊していた。時には子どもが近づいてきて、タクシーの窓を掃除しようと石鹸水をかけてきたりするのだが、運転手も慣れたもので、窓を叩いて追い払ったりしていた。
ホテルにチェックインした後、支店の事務所に向かう。ホテルや事務所があるのはマカティという地区で、東京でいうところの丸の内なのだが、道はところどころ舗装が剥がれておりデコボコしていた。信号もあってないようなもので、車が止まるタイミングを見計らって道を横断しなければならず、何度も肝を冷やした。道には車が溢れ、クラクションは鳴り止まず、通りに面した支店事務所の中にまで響いていた。
仕事の後、事務所近くのショッピングモールに行ってみた。クーラーが効きすぎて寒いくらいのモールの中には有名高級ブランドのショップが並んでおり、熱気に包まれた外の町並みとは別世界のように感じられた。
事務所のあるエリアからホテルに戻る途中の交差点で車が途切れるのを待っていたとき、どこからか集まってきた子どもの一団に囲まれ、腕を掴まれたり、ポケットに手を突っ込まれたりされた。何も盗られずに済んだのは幸いだったが、初日から手厳しい洗礼を受けたものだ。
だが、こんなものはまだ入門編に過ぎなかった。2日目以降、事務所のあるマカティを離れ、取引先の会社がある港湾地区に行くことになった。タクシーでの移動だったのだが、マカティを離れると風景は一変し、低層のいかにも貧しい家々が立ち並ぶ町並みが続き、ここで降りたらただでは済まないのではという緊張感があった。道端にたむろする人に悪い人はそうそういないのだろうが、それでもドアのロックを確認せずにはいられなかった。
目的地の港湾地区では星付きの高級ホテルの高層ビルが立ち並ぶ一方、足元では仕事をしているのかしていないのかわからないような人々が道端で横になり、ボロボロの服を着た裸足の子どもが走り回っていた。この時はまだマニラに慣れていなかったため、マカティがひどく恋しくなったものだった。
初めてのマニラ出張は、あの街の、そしてフィリピンという国の光と影を見せられたものとなった。
あれから10余年が経過し、マニラにも何度も足を運んだ。この間に建設中だったビルも次々と完成していった。デジタル技術の進歩のおかげでマニラ滞在も便利になり、日本と同様、マカティくらいなら現金を持ち歩かなくても用が足りるようにもなり、配車サービスを使えば道端で苦労してタクシーを捕まえなくてもよくなった。人々スマホを持ち、メッセンジャーアプリで連絡を取り合っている。マカティよりも開発された新興地区が次々と誕生し、さながら未来世界のような姿をさらしている。そんな急激な進歩の一方で、混雑する車の間を縫って物を売る人々は絶えず、港湾地区では相変わらず裸足の子どもが走り回っている。光が強くなったために、その影もより濃く感じられるようになった。
天空に向かい伸び続ける摩天楼の足元は、未だ変わらぬ貧困が渦巻いている。全体的に底上げされたのではなく、力のある人々がより大きな富を得た結果の成長。混沌とした世界の魅力とも、あの国が抱えた深刻な問題ともいえる。
では日本はどうだろか。一億総中流と言われた時代は今は昔になっているようで、このところ夏休みは給食がないので昼食が食べられない子どものことを扱ったニュースを頻繁に見るようになっている。マニラで見たあの光と影は、もはや他人事ではないのかもしれない。そのうえマニラには冬がなく、凍える心配がない。人の気質も大分違い、マニラの人々は楽天的で悲壮感がない。対して日本人は。私たちこそ天高くそびえる高層ビルの足元を見なければならないのかもしれない。
果たして往復書簡のシメになったかどうか。ものを書くというのはなかなか大変なものだと改めて痛感いたしました。ただ、書くということはなかなか楽しいものでもあるので、日々の鍛錬は続けて行きたいものです。また弟のオマケでGO ONにお邪魔できればうれしいです。ありがとうございました。