Column

夏中彷徨

絵鳩まつり

芳香(絵鳩まつり)

だから何だというはなしだ。

上に向かって起きているかとたずねると、うめき声だけが返ってきた。

大した高さもないロフトだけど、ハシゴを登るのは面倒くさい。

大家さんの庭の桃をもらいにいくと言ったのに、頭上からは思い出したようにたまにページを捲る音がするだけ。はみ出た足の裏がうらめしい。

仕方ないからでかい音を立ててスイカを切っていたら、ようやく降りてきた、ちょっと申し訳なさそうにしている。

(大家さんの庭)

子供の頃、桃によってくるカブトムシを取りに農園へ忍び込んでいたんだと告白したら、そういうところだよねとそっけなく返された。

地面には流れ出た蜜とそれに絡む土にまみれた桃がごろごろと。踏むなよという側から踏みつけている。

そのスニーカーは下ろし立てだと言ったのに、キャンバス生地が泥に汚れている。

きたない。

夏はきたない。

桃の蜜に誘われてやってきたカブトムシが、虫除けの網に見事にかかっていた。ベタベタしたお腹。

振り向けば、いつの間にやらナイフで皮を剥いた桃を豪快に頬張っている。唾液なのか果汁なのか、口の周りを光らせて、うわ、目がぎらついてら。

Tシャツの胸元は甘い汁でベタベタ。

カブトムシと同じかよ。

結局紙袋いっぱいに桃をもらってきた。

こんなにどうするのだと思う。

さっさとロフトへ戻る背中に、今から自転車で何人かに配りにいくが来るかというと、もう返事はない。

まあ、期待はしていない。

米は炊いておけと念を押して、再び灼熱の表へ出る。頭皮はじりじり。立派な入道雲は、この後雨が降る証拠だ。雷を伴うでしょう。

熱中症情報、危険、極力外出は避けて、という警告通知が携帯の通知欄に居座ってる。

つう、とこめかみを汗が。それを風がさらう。カラカラと車輪を回しながら、配り終えたら花屋へ寄ろうと思う。けど、雨が降りそうなら帰らなきゃいけないな。きっと降り出したって気づきやしない。

一応伝えてはおくか。傾き始めた西陽に負けないよう、力を込めて漕ぐ。

またくれるの、と言われた。

意味がわからなくて聞き返すと、さっきも桃くれたじゃんと。

知らない。それはだれだ。

あんただけど。って。

じゃあいらないのかと聞くと、欲しいと手を伸ばすから特に持ち重りのするヤツを選んで2つ手のひらにのせてやった。

右手と左手に桃を乗せたまま、で、なんでも一度来たのというから、蜃気楼でも見たんじゃないかと言っておいた。

そんなこと言われても困る。

もう2軒ほど回って、ようやく家に向かう。ジーンズが汗を吸ってすっかり変色している。日はもうすぐ暮れるだろう。目がよく見えない、マジックアワーというやつ。事故が多発するあれ。ニホンゴでハクボ。すれ違う人の顔を認識しづらい、やほーって声をかけられたからさっきのは知り合いだったらしい。いや、見えてるけどね。

ドッペルゲンガーって、出会うと死ぬんだったけ。

でも正直、自分が2人いたら楽だよな。ぽつり、額に雨粒、

ほらね、洗濯物、取り込んでくれる自分がもう1人。いたらいいのにね。

そういう時に限って、踏切につかまる。線路わきのタチアオイ、てっぺんまで咲いてないけど梅雨は明けたって。先月テレビが言ってた。もうすでに頭から枯れ始めている。

ああ、書きかけのタチアオイの小説、書き上げないとな、ため息。熱い息。へっこんだ肺に酸素を補給して、前カゴの空の袋から、桃の甘い残香が。もういいよ。

本降りになる前に、なんとかアパートまでたどり着いた。

濡れたかな、濡れたよな、

目線を持ち上げると、ベランダには何もない。取り込んである。

ああ、なるほど。

ちょっと笑える。

まあ、だから何だというはなしだけど。

咆哮(あん子)

べつに意味なんてなくて、ただ急に、けれど鮮烈に脳裏に浮かんだだけ。真っ赤な水飛沫、飛び散る黒い粒、空気を切り裂く弾丸の残像。口に入った甘い汁の後味。今にも泣き出しそうだった、あの子の大きな目。

はぜる。すいかは、はぜる。

ぐしょぐしょに濡れた俺のTシャツはたしか縞模様だったっけ。

✳︎

いつから夏を憎むようになったんだろう。あのクソ暑い熱風の中に自ら飛び込んでいたことなんてすっかり忘れたって顔をして、俺はクーラーガンガンのオフィスから、または薄暗い寝室から、アスファルトの陽炎を虚な目で眺めている。だけどそういう自分を天井から見ている自分がいて、そいつは俺を見てうわあって思う。うわあ。

それは例えば苦手だった同級生にばったり会って、今度飯行こうよって心にもないことを言っている自分に気づいたとき。彼女にあげる婚約指輪を見に来て、こっそり電卓を叩いてしまうとき、めちゃくちゃ興味あるアーティストだけど、ダサいって評判だから聞くのやめちゃったとき。小さい頃から何ひとつ変わっていないくせに、過去も自分のほんとうも無かったことにしようとしている自分。得意なはずの見ないふりができない夜は、自分に心からの軽蔑を送る。視界が曇ってうまく見えない。多分、夏が作る不自然な温度差のせいで。

真夜中、不健康に冷えた寝室が、耐えきれなくなって俺は外に出た。途端に肌にまとわりつく重たい闇。生ぬるい空気が部屋に入り込み、ドアを閉めるとそれがぷっつり切れるのが見えるようだった。一瞬で汗が滲んだ。すいかくいてーな。当たり前のようにそう思った。また昔みたいに輪ゴムをひっかけ続けたら、うんざりするような上っ面も爆発するかな。

せまい路地を抜けて国道に出た。国道なのに、田舎だから23時過ぎともなれば車通りはまばらにしかない。雑草がぼうぼうに生えた歩道を蹴るように歩いた。ねこじゃらしが足首をくすぐって、珍しく腹が立ってそれをむしってやった。手に緑の汁がついた。青臭い匂い。夏は久しぶりだな、無意識にそんなことを考える。

すいかが売っているようなお店は当たり前だけどもう全部閉まっていた。結局、道の反対側に見えたコンビニの明かりに吸い寄せられてしまう。こうこうと光る店内の壁に掛けられた時計の秒針が、いやにゆっくり回って見える。異世界みたいなコンビニの前でしばらくぼうっとした。まだ冷めやらないアスファルトの地面で、たくさんの羽虫と一緒に、延びきった時間の束が死んでいた。

異世界にすいかは売っていなかった。けれどレジ前に積み上げられたダンボールの端で、何かが転がって眠っていた――それは桃だった。白い肌をじわじわ覆ってゆく蒸気したピンク、その中に閉じ込められた水分の重み。無機質でかさついた陳列棚の間で、その桃だけが明らかに呼吸をしていた。俺は衝動的に桃に手を伸ばした。若い店員がレジを打った。三百円だった。

眠る桃を手のひらで転がしながら来た道を戻った。エアコンの効いた店内で乾いた背中に、あっという間に汗が流れた。桃の産毛が手にチクチク刺さる感じ。そういえばあのとき、すいかを買うのに一ヶ月分のお小遣いをつぎこんだよなあ。あいつが金欠だってさわぐから、俺が三百円も多く出してやったんだった。あの笑っちゃうような爆弾がはじけたとき、俺はどうして逃げずにいられたんだろう。

ふと、手が濡れていることに気づいた。月明かりにかざすように、桃を持った手を掲げた。裏側の皮がつぶれ、そこから汁が垂れていた。腐りかけた果実の甘すぎる芳香が闇に染みこみ、俺はくらりとした。高く掲げた手の中から濁った汁が腕をつたい、あっという間に脇の下に滑りおちる。しばらく動かなかった。

月が雲をくぐり抜ける気配がした。俺は桃を持った手をおろし、それからその果実に皮ごとかぶりついた。やぶけた肌から滴り落ちる水分が口元をぬらし、それは汗で湿ったティーシャツにこぼれ、アスファルトに落ちて黒いシミをつくる。果肉は半分発酵して美味しいのかまずいのかよくわからない。べたべたして気持ちの悪い感触を、俺は心ゆくまで味わった。馬鹿みたいなエネルギーの塊を打ち上げられるほど無責任にはもうなれない。それをさみしいことだとも別に思わない。そう思わないことが、ほんのすこしだけさみしい。

種までしゃぶってしまうと、もう桃は呼吸していなかった。俺は手のひらの不発弾を握った。そして闇に向かってふりかぶり、いきおいよく放つ、ふりをした。

Creator

絵鳩まつり

詩や小説、フィルム写真など文学活動全般に、気ままにけれど見境なく手を出すただのひと。幼少の頃から物語を愛しているが、物語から愛されているかは分からない。いつか写真展を開くのが夢。謎めいたコトバの収集癖がある。