Column

M-1GP2023

ボンジュール古本

前口上
年が明けたが2023M-1もおもしろかったし、いつもと違う回というか毎度同じような内容だったことは今までなかったが、特に異様な大会だった。
令和ロマンおめでとう!!!
近年は芸歴長めの苦労人がやっと手にした名声、とか執念深さがつきまとう果ての優勝、のような雰囲気だったが、前コンビ名 魔人無骨の頃からこの若さでこのパフォーマンス、と周囲に脅威を与え、近いうち必ずM-1決勝に登場すると言われ続けて昨年、敗者復活でオズワルドに僅差で負けた彼らのような若手が、軽々と優勝をさらい見事で痛快だった。

コンビ名変えておいてよかったね

予選の進行中からも、高比良くるまは「M-1の3回戦は、皆緊張していて殺伐とした現場だから、昔の雰囲気にしたいんでふざけてきま~す!」と言ってたり、ファイナリストになった際も「優勝したい」ではなく「今までで一番良い大会だったと言われたい!」と叫んだ。余裕があるように見えるが、本当に余裕があったのではないかと思う。まるでゲームを攻略するように、優勝を一つのイベントとしてこなした、と捉えているかのようで、M-1歴代チャンピオン達とは明らかに異質だと感じた。

私は以前より、高比良くるまがこわかった。

くるまは自身のYouTubeチャンネルで、独自の持論を展開していた。漫才の作り方にはサイクルのようなものがあって、これをエンタメ3分割として考える場合、こう分けられる。
〈主張〉〈批判〉〈批判の批判〉
以下の言葉にも置き換えられる。
〈ベタ〉〈シュール〉〈メタ〉
これらをバランス良くまとめ、配置することでネタが出来上がり、多角的な笑いが起きる、という内容だった。令和ロマンの漫才は特にメタ視点が多く、ここに特化しており、主張の部分が少ないと感じる。やろうと思ってやっているのか、自然にそうなっているのかをこちら側からは汲み取ることができず、私はくるまのここがこわいと思っているのかもしれないなと打っていて思った。

その人っぽさってなんだろね

以前大吉先生は、芸人全般について「観客のアンケート用紙を見て気付かされることがあるようでは、芸人としてはまだまだではないか」と持論を述べていたし、2022M-1チャンピオンウエストランド井口さんも「お客さんが勝手にアドバイスしてくるようなことは、こっちはとっくに考え抜いてのことなので、余計な口出しをしてくるなよ!」とぶち切れていた。いずれも、客の想像を大きく上回っていることが前提で行われてることだと主張する。

「その人の人間性が出てきておもしろい」とか「人間性が見えてこない」などと言ったりするが、漫才にこれは必要なのだろうか?くるまの人間性を、漫才に反映させる必要があるのだろうか?しかし私はそこを重要視していない。

令和ロマンに限らず、今後大きく考えてみたい部分でもある。敗者復活戦もルールが変更し、M-1放送前に、まるでもうひとつの大会を見ているようだった。漫才後即結果が出る勝ち抜き戦なので目が離せず、来年も同内容で行われるとしたら午後3時頃からテレビに張り付かなければならない。

マジ楽しみすぎる。

ものまね芸人MJが活躍できない程、畏敬になっちゃてる今の“彼”

長い間、神と崇められてきた松本人志がこのようなスキャンダルで活動できない状態に追い込まれるのは、本人としてもそれはそれは不服なのだろうと思われ、まずはそのような事実が本当にあったのかが知りたい。まあおそらくあったんだろうけど。

誰かの「真実はない。あるのは解釈だけだ」といった名言的なもので、これはもう圧倒的で絶望的に、当事者各々の認識の食い違いも甚だしく、本人達をよく知らない一般の私たちが端から見てる分には、本当に申し訳ないがまあまあおもしろい。

ただ、このビッグニュースにほとんどの芸人は不自然な程いじらず、いじれないのも分かるが、彼が標的にされたのは一種の社会的な見せしめでもあると思うので、事の顛末と、業界だか世間だか意識だかのシフトチェンジ −確実に何かが喪失され、さらにどんなものがどうやって生まれてくるのか− を私たちはむしろ見届ける義務がある。

ある層から見れば、彼の出身地尼崎にいた頃からからほとんど内輪ノリでやっていたようにも思えなくもない彼らの笑いは、この事件を持ってしても最終的に笑いにするだろうか?

「彼がいないと始まらない」ことなどもうとっくになくなっているし、THE SECONDや、M-1GP2024は何事もなかったように開催して欲しい。ただそれだけ。