Column

すべての、咲くもの

あん子

〈ターン〉

花寿美は、○○○○だ。

小学校に入学してすぐのころ、花寿美は自分がきれいでないことを、うまれて初めて知った。それまでは美人かどうかなんて考えたこともなかった。

「たらこくちびるだ、○○○○」
隣の席の女の子から、そう言われたのがはじまりだった。女の子のくちびるは、ピンクの水彩絵の具をふくませた細筆ですーっとひいた線みたいにうすくて小さかった。花寿美はすぐに、ふっくらと赤いたらこを頭の中に思い浮かべた。それを言うならこの子のくちびるは、うすく切ったまぐろのお刺身みたいだと思った。

家に帰ってからも「○○○○」が頭から離れなかった。花寿美は洗面台の前に置いた足台に乗っかって、鏡の中の自分をみつめた。くちびるがぶあつかった。おいしそうに太ったたらこがふたつ、顔の下のあたりでふんぞりかえっているみたいだった。どうして今まで気づかなかったのだろう。花寿美はがくぜんとした。

鏡の中の自分をじっと見つめていると、気味の悪い錯覚に襲われた。くちびるがどんどん大きくなってはれあがり、ついに顔の輪郭を突き破りそうになる。おもわず悲鳴をあげたとき、花寿美は自分が○○○○だということを、はっきりと理解したのだった。

花寿美は春から、小学校六年生になる。今、クリーム色のトレーナーと着古したデニムにランドセルを背負って、桜並木の下を歩いている。

本当を言えば、一年生だったころの花寿美は何ひとつわかっていなかった。ただ「○○○○」という四文字のならびを自分の顔に無理やり当てはめられたのを、すっかり信じ込んでしまっただけだった。それが分かってからも、無視することができなかった。呪いになった四文字が花寿美のからだを重く押さえつけていた。飛べないように。ひらひらと舞い踊れないように。

(でも、わたしは知ってる。わたしはそのうち、きれいになる)

花寿美は道の上でおもむろに立ち止まり、大きな桜の木を見上げた。細くつやつやした枝に、まだ花が咲く前のつぼみがたくさんついている。ところどころがうぐいすいろをした、皮の一枚一枚が、ぴったりと体を寄せ合って閉じている。それは毎日少しずつ、柔らかくふくらみうっすらピンク色に色づいてきていた。一昨日よりも昨日、昨日よりも今日……明日には、もしかしたら、つぼみはほどけて花開くだろう。

花寿美はつぼみの桜を見ているのが好きだった。かちこちの芽みたいなつぼみの奥で、生命が眠っている。そのちからづよい美しさを思い描くのが好きだった。
(……きれい)
からだの中心で、花寿美はなにかが疼くのを感じている。熱くて、艶やかで、豊潤な泉のみなもとが、しずかに湧きはじめたのを。

(わたしはそのうち、きれいになる。でも、まだ、今じゃない)

首を真上に傾けて腕をひろげると、衿もとからまだ少し冷たい風がはいりこんで鎖骨のあたりをなでていく。花寿美は目を細めて桜の木を見上げ、深呼吸する。人目を気にしながら、まわりに目を走らせる。それからすばやく、春霞にかくれるようにして、とうめいなドレスのすそをもちあげくるりとターンした。

〈さわれない〉

瞳子のつく嘘は、生命を燃やしたあとの煙で、僕を悩ませる奇妙な行動は、今もくすぶり続ける鈍い熱の名残りなのだと思う。

彼女の左手の、紅くただれて縮れた傷跡を見る度に、僕はごめんなさいと心で謝る。誰に?……わからない、なにかに。その傷がついたときのことをこれから何百回聴き直しても、僕はほんとうには彼女の痛みを理解できないだろう。そのことに。彼女の中に見えない領域があることを、ゆびさきで怖いと感じ取ってしまうことへの免罪符として。

僕がいつかはめた指輪が、瞳子の左手の傷跡の上で淡く光っている。そこでだけ僕たちは正真正銘繋がっていることができる。四月初めの夜遅く、生暖かい空気に包まれて、踊るように泳ぐ彼女の左手をつかまえ、薬指の金属をなぞって確かめた。

「あ、満開だ」
路地を曲がったところにある公園にさしかかると、瞳子はほんの少しはしゃいだような声をあげた。暗い公園の真ん中で、白く光る桜の木が揺れながら立っている。
「見にきてよかった。明日には散りはじめてるかも」
「うん」

ぱっと、瞳子が僕の手を離し、桜の方へ導かれるように走っていく。洗いざらしの無垢な長髪が背中で揺れた。それから、木の下に腰を下ろし、そのまま後ろへ倒れた。

僕は息をとめた。今にもこぼれ落ちそうに枝からあふれ、発光しながら咲き乱れる桜の下で、手と足を大きく広げて寝ている瞳子が、花びらの光をうけて闇の中でぼうっと浮かび上がった。綺麗で、恐ろしいほどに綺麗で、そのとき彼女は僕のしらないひとだった。底のない、深く透明な湖に、僕は沈んだ。

「桜にね、栄養をあげてるの」
寝転んだまま、瞳子が言う。「栄養?」僕は聞き返す。
「そう。汚いもの、醜い衝動、どろどろ、ぐちゃぐちゃしたもの全部」
桜の木の下にゆっくり近づいて、彼女の閉じたまぶたに花びらの影が落ちているのを眺めた。

「桜はね、人間の腐ったところを吸い取って咲くんだよ。知らなかった?ありえないくらいに綺麗に咲くの、どうしてだろうと思ってたでしょう、あなたも」

瞳子は目を開けて、僕をちらりと見上げ、手をこちらに伸ばした。つられるように僕も、彼女の隣に寝転ぶ。背中に硬く湿った根っこの感触が伝わった。その中をどくどくと流れる、瞳子の「どろどろ、ぐちゃぐちゃしたもの全部」を僕は、さわれたらいいのにと思う。身じろぐと、右手の中指の関節が、瞳子の冷えた左手の関節にふれた。

頭の上で、花びらの集合体がざわわと揺れる。ふちのあかい目がたくさんこちらを見ている。となりで規則正しく呼吸する瞳子のからだから、体温がたちのぼるのを、僕は必死で感じ取ろうとしている。身のすくむ怖さの中にとりのこされた、手に負えないほどの愛しさに襲われて、僕は瞳子の左手首をそっとつかんだ。

いつの間にか、薄闇をすべるように、桜が舞い始めていた。

Creator

あん子

群馬県出身。相棒は紙とペン、フィルムトイカメラのLOMO LC-A。幼い頃から息をするように物語を書いて生きている。いつかもっと広い場所に届くことを夢見て模索中。noteで不定期にエッセイや小説を更新している。