御茶ノ水〜神保町の話を3回分書いて、いよいよ神保町のことを書こうと思っていたのだけれど、今回は久しぶりの番外編です。順調に歩き始めると寄り道をしたくなるものです。
GO ON Radioで暮らしの話をしはじめたことがきっかけで、雑誌の「暮らし」「部屋」「インテリア」「家」の特集のことを久しぶりに思いだした。あの手の、雑誌に載っている部屋の写真って、なんであんなにきれいなのだろうかという「リアリティのなさ」について思いをはせた。
リアリティ、現実感(大学の時はフランス語を勉強していたのでフランス語で「リアリテ」と言った方がなんかしっくりきた)、それは長年にわたって僕の中で密かなブームである。自分の生活、小説、映画、テレビドラマで繰り広げられるそれぞれのシーンにリアリティがあるのか、ないのか。そんなことを時々考えている。
部屋の話。
部屋がちらかる。昔から部屋がちらかる。正確に言うと、主に活動している場所がちらかる。1人暮らしをしていたときは、部屋そのものがちらかり、今は仕事場の机の上がちらかっている。
ちなみに、今この話を書いている自宅の仕事をしたりするパソコン作業スペースのような空間は、適度に片づいているが、本や雑誌、CDがそれなりに積まれていて、ちらかっていると言えばちらかっている。それでも、ひとつ言っておきたいのは、ゴミはきちんとゴミ箱に捨てるので、部屋やコタツの上に食べ終わったポテチの袋があったり、汁のまだ残っているカップラーメンの容器にタバコを捨てたりとか、そういうことはしたことはない。飲み終わったビールの空き缶は水ですすぎたいくらいにはきれい好きではある。余談だけど。
では、何がちらかるかといったら、本や雑誌や、仕事の書類、どう処分したらよいかわからなくなってしまったチラシや謎のメモ(もう何が書いてあるか自分でもわからないようなメモ)、捨てるに捨てられない様々な小物などなど。そういうもので部屋や机の上が乱雑になってくる。
時々思い立って(だいたいは何かを探しはじめたことによって)片づけるのだが、基本的には右のモノを左にやるような片づけなので、見た目は少しきれいになるのだが、モノの総量は基本的には変わらない。なんとなく整ったかなというレベルで片づけは終わる。
そもそも、ちらかっている部屋が嫌いではないという思いある。だが、冒頭に出てきた雑誌に載っている写真のようなきれいに整った部屋にもあこがれはある。あのような「リアリティのない部屋」と「目の前にある現実の部屋」の間を、思考は行きつ戻りつする。というわけなので、そういう暮らし特集、家特集や収納特集、片づけ特集の雑誌を眺めるのは実はとても好きだ。
「ちっ、こんな部屋あるわけないじゃんかよ」とか「こんなにうまく片づけられるわけはないだろ」などとケンカ腰でページを繰るのは、あこがれの眼差しの裏返しである。雑誌の中には、きれいに整頓されて白っぽいお部屋ばかりではなく、ときどきモノの多い部屋の写真などもあり、一瞬「これぞ自分の目指すべき部屋なのではないか!」とよく勘違いするのだが、落ち着いて見るとドラマに出てきそうなくらい広い部屋だったり、とてもおしゃれなアンティーク調の棚に収まっていたり、やっぱり真似できないことが多い。
「どうしたら、満足のいく自分らしい空間ってものをつくることができるのだ?それとも、このちらかっている空間が自分らしいってことなのかい?」と自分に問いかける。「まあ、そういうことだね」。ともう1人の自分は答える。
本編の方でも、そのうち書くことになると思うが、大学3年から豊島区の高田というところの古い1軒家の1階部分に住んでいたときがあった。古い家で6畳間と4.5畳間の和室がつながっていて、そこで友人の市川くんと音楽をかけたり、小さいブラウン管のテレビで録画した『トレインスポッティング』を流したりしながら、よく酒を飲んでいた。部屋は大学の教科書やノート、本や雑誌、CDやわけのわからない様々なモノでちらかっていた。ちらかっていたが居心地のよい空間だった。と思う。
大学4年の頃も、僕はリアリティにこだわっていた。リアリティのないことをしたくなかったのである。そのときの悩みは、『ボルヴィック』であった(『ヴィッテル』だったかもしれない)。要するに問題は、自分がミネラルウォーター(しかも外国の)を飲んでいることにリアリティがあるかどうかということだった。今こうして書いていると非常にばかばかしい気もするのだが。その頃、なぜか硬水を飲みたくて、スーパーで1.5リッターの『ボルヴィック』や『ヴィッテル』(『ヴィッテル』の方が好きだった)を買ってきて小さな冷蔵庫に入れて飲んでいた。そのことが、自分の中でモヤモヤしていたのである。
ある時、市川くんに聞いてみた。
「この冷蔵庫に入っている『ボルヴィック』にリアリティはあるのかい?」
市川くんの答えはこうだった。
「リアリティってのは、その飲み終わってつぶされた『ボルヴィック』にあるんじゃないのか」。
思いだしてみても実にばかばかしい話なのだが、自分の中では好きなエピソードのひとつである。