Column

追憶の東京〜地図のような文章〜
その1 上中里

サイトウナオミ

1997年の3月、早稲田大学の第一文学部に通うことになった僕は東京に越してきた。
2つ離れた兄が、当時はまだ巣鴨にあった東京外国語大学に通っていた。早稲田も巣鴨もそれほど離れていないということで一緒に住むことになり、巣鴨にも歩いていける北区上中里にあるKビルという名のアパートに住むことになった。

Kビルはビルといっても3階建てのちょっと大きめの家という感じの建物で、1階が駐車場、2階に僕ら兄弟が住み、3階には家族連れが住んでいた。大学には、西ヶ原という駅から当時開業したばかりの地下鉄南北線(ホームに転落防止のドアがついていて、とても未来的だった。因みに南北線はまだ溜池山王までしか通ってなかった)で飯田橋まで行き、東西線で早稲田というルートで通った。

早稲田大学の文学部は戸山という場所にある。よくテレビなどで目にするのは本部キャンパスで、そこから少しだけ離れた場所にある。女子の方が多かったため、戸山女子大なんてよばれることもあった。

話を戻そう。
Kビルへは、JRの京浜東北線の上中里駅が一番近い。上中里の駅を下りてまわりこむような坂を上がったところにKビルはある。目の前には神社の緑が広がっている。消防署が近くにあり、朝になると団員の威勢の良い掛け声がよく聞こえてきた。上中里の駅前には、美味しい食パンが売っている(近くのスーパーの中では一番ハイソな感じのする)スーパーがあった。そして、線路をまたいで駅の反対側に渡ると、がらっと違う雰囲気の町があった。時々その反対側にある銭湯に行ったのだが、場違いな空気を感じて少し緊張した記憶がある。空気の違いが怖くて銭湯より先には行ったことがない。

Kビルの間取りは、いわゆる2DKである。玄関を入ってキッチンと廊下を兼ねたような部屋と、それぞれの部屋(6畳と5畳の和室、5畳の方が僕の部屋だ)がありそれぞれの部屋は襖で仕切られている(というよりもつながっている)。バランス窯のお風呂もついていたが、時々は近くにいくつかある銭湯に行っていた。食事は最初のうちは交代で自炊して食べていたが、途中からお互いの生活リズムが少しずつずれてきて、バラバラに食べるようになった。そして、まあまあ頻繁に兄のサークル仲間の友人が遊びに来て宴会をしていた。時々そこに混ぜてもらった。

Kビルの近くには学生が行けるような飲食店はそれほどなかった。そもそも、当時は今に比べあまり飲食店自体が多くなかったような気がする。休日などにKビルにいる時は、昼飯は近くの蕎麦屋か中華料理屋のどちらかに行くことが多かった。蕎麦屋の思い出は恐ろしいほどにない。店の感じも場所さえも、さらには何を食べたかも記憶にない。中華料理屋の思い出は、暑い夏の日に店の小さなテレビで、唐揚定食を食べながら、甲子園で力投している松坂を見たことである。今でも松坂を見ると、あの中華料理屋のことを思い出す。

夜になると近くの広場のような所に、どこからか謎のおでん屋が屋台をおしてやってくる。そして、そのおでんが驚くほど安く、うまい。その屋台に座っておでんを食べたのは一度くらいで、鍋を持参して好きなものを選んで買って帰り、ビールを飲みながら食べることが多かった。高い具材を選ばなければ(そもそも何が高かったのだろうか)、腹いっぱいになるだけ選んでも500円もしなかった。あの価格でどのように利益を出していたのか、まったくもって謎である。屋台でお酒を飲むこともできたのだが、あるのは日本酒だけだったと思う。その日本酒も中身が何であるかはまったくわからない。

Kビルから引っ越してからはそのおでん屋台に行っていないので、おやじがいつまでおでん屋を続けていたのかは分からない。
もう二度とあのおでんを食べられないかと思うと、少し寂しい気持ちになる。続く

Creator

サイトウナオミ

地図描き/ふやふや堂店主。群馬県桐生市出身。東京・京都を経て2012年秋より再び桐生市に住む。マップデザイン研究室として雑誌や書籍の地図のデザインをしながら、2014年末より「ちいさな本や ふやふや堂」をはじめる。桐生市本町1・2丁目周辺のまちづくりにも関わり始める。流れに身をまかせている。