少しずつ暖かくなり、外を歩くことが気持ちよく感じられる季節が巡ってきた。こんな時期、マスクを身につける事が日常となる前はよく食べ歩きをしたものだ。
食の名所や有名レストランを巡る食べ歩きではなくて「歩きながら食べる」ことが若い時から好きなのだ。観光地やテーマパークなどの華やかな特定の場所で何人かとソフトクリームや食べながら、というものでもなくて、1人で何でもない道を歩きながら手軽なものを食べる。
高校の門を出るとすぐに手作りパンの店があり、ふにゃっとしたコッペパンに焼きそばやポテトサラダを挟んだお惣菜パンを齧りながら、駅までの道を歩いたものだが「歩き食べ」はそんな自由な放課後感が強い。
たいていは仕事の帰り道、「明日は休みだ」という夜にジャイアントコーン(黄色)を齧りながら、のんびりと歩く道のりの間には幸せしかない。星を見て、風や花の香りを感じひんやり甘いバニラとチョコレートを舌で味わいながら歩く夜道は、深刻な事案を抱えていたとしても、微塵のかけらも消えてしまったかのようだ。
3~4年前のある仕事帰りの夜、道でペリっとジャイアントコーンのパッケージをめくった瞬間「おつかれさま!」とメッセージが出てきたのには、予期せず少しこみ上げるものがあった。明らかに小さな子どもに向けてではなくて、まさに全国各地の働く老若男女に向けてのメッセージはサプライズプチギフトだった。
複雑ではない、わかりやすい丁度いいおいしさが食べ歩きにはいいと思う。
例えばハーゲンダッツのバーは旨味と構成がケーキ並なので、野外の少々荒めの空気感とはうまく溶け合わない気がする。やっぱり家に着いてお風呂にゆっくり浸かってちゃんと肌の手入れなんかをした後に、やっと迎え入れたいようなそんな感じ(昨年食べたマロングラッセのコーティングのラムとシャリ感の再現力には脱帽だった)。
自分がズンズン歩くことで目の前の変わりゆく景色を楽しみながら、暑い日はアイスなり寒い日は鯛焼きなりを齧りながら、というのが好きだが、桜が咲き穏やかな陽気の春の季節には歩みを止めてしばし公園の芝生や河原などに腰をおろして、しっかりと時間をとってお弁当を頂くのもいい。
まだ太陽が雲に隠れると肌寒いので水筒に入れて持参するなら熱い焙じ茶。塩の効いたおむすびに揚げ物(唐揚げか春巻きか揚シウマイ)、甘めの卵焼き。この時期は柑橘が旬だから蜜柑でも八朔でも好きな種類をひとつ食後に食べたらさっぱりする。さっと座って一息入れたい時には銀だこのたこ焼きをハフハフしたり、どのスーパーでも見かけるようになった石焼き芋も手頃でよい。
自分が動かずとも、ましてや落ち込んでいようが世界の情勢がどうなっていようが、上を見やれば雲が動き鳥が飛び、足元の草や野の花は風にそよぎ、川は流れ、ささやかに営みを続けている。
そんなことに気づいた時、人間の存在はこの地球のほんの一部の構成要因でしかなくてもっとたくさんのものと共に今、この時を生きているんだなぁと実感する。だから何だ、ということもないのだけれど食べ終わって、さぁ行こうか、という頃には無意識にキュッと噛み締めていることが通常になっていた奥歯が緩むようにほんの少し頬がゆるみ柔らかくなっている気がする。
こんな瞬間にふと、こうちゃんのことを思いだす。『こうちゃん』は須賀敦子さんの文と酒井駒子さんの挿画で出来ている絵本である。元々は酒井さんの絵の大ファンで手元に置いていたのだが、歳を重ね改めて読み返してゆくと須賀さんの文章の美しさに気づき、初めて手にとった頃よりも、深く酒井さんの切なさを含む絵がより物語と一体となり世界に引き込まれていく。
須賀さんの語る瑞々しい四季の様々なシーンの中で、幼いこうちゃんが主人公の「わたし」の前にあらわれてはどこかへ行ってしまう。
「三月もなかばの 南の風のやわらかい朝、町のまんなかの 大きな広場を わたしはいそいで通ってゆきました。教会の大きな時計も、もうすぎ去った冬の日のようにきびしい顔つきをせず、時間など ほんとうは どうでもいいのだというように、のんびりと時をきざんでいました。陽だまりには、そろそろ オーバーをぬぎはじめた子供たちが かけたり 笑ったりしていました。」(河出書房新社発行『こうちゃん』より一部抜粋)

この数年はおそらく誰にとっても、戸惑いを抱えることの多い期間だったと思う。今だって決して全てが解消されたわけではなく、出口の見えない戦争に本当に多くの人が傷ついている。
近所の川沿いの桜並木は今見頃が訪れ、家族、友人、恋人、ひとり、あるいは犬を連れるなどして皆愉しんでいる。心の中は常に問題が山積みだけれど、この桜が咲く短い期間だけでもしばし外にでて、新鮮で柔らかな春の息吹を感じ、花を愛でる自由を私もしばし味わいたいといと思っている。