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96年はエロな年
小山田圭吾69年生まれ、カヒミ・カリィ68年生まれ。え、カヒミのほうが年上だったのか…。『69 Annee Erotique(69年はエロな年)』に生まれた小山田って、若い頃のゲンスブールに似ているし『69/96』だし、何にせよ6と9はエロい。
96年(95年説あり)セルジュ・ゲンスブールと出会った私。きっかけは、カヒミ・カリィのラジオNHK FM『ミュージックパイロット』だった。オープニングからゲンスブールの『En Melody』が流れる。カヒミは「ゲンスブールは私のヒーロー」と話していて、何度かラジオで特集が組まれた。
最も印象に残っているのは「こんな曲をかけていいのかな…?」と言いながら流した『Evguenie Sokolov』。それはレゲエのリズムにのって、ずっとオナラの音が流れている曲だ。スカトロジー趣味を持つゲンスブールを知っていれば、どうってことはないのだが、ゲンスブールデビューをしたばかりの私にはとんでもない衝撃だった。そしてそれをラジオで「いいのかな…?」って言いながら流してしまうカヒミに、かわいいだけじゃない棘を感じて、より一層惹かれていくのだった。まさにロリータ。
カヒミ先生、ゲンスブールを教えてくれて本当にありがとう!
そして、ゲンスブールが好きなら年上の男が好き。ですよね?もちろん私も。
いつも同じファッション(白シャツとジーンズ)にボサボサの頭、メガネのフランス語の教師。15歳ぐらい上だろうか(歳の差20歳まではアリ)。これといってハンサムなわけではないけれど<いつも同じファッション>というのは、ゲンスブールに調教された女にとっては恋に落ちる要素を存分に含んでおり、あれよあれよという間に落ちていった。当然フランス語の成績もクラスで上位を確保。教師が授業でフランス・ギャルを流したことを機に、音楽の話をしたく接近を試みた。
授業の後に「フランスでのゲンスブールの評判を知りたいです」と質問。「フランスではゲンスブールは醜い男。日本で言うと沢田研二みたいな感じかな」と教わり、「ゲンスブールのレコードは持ってないけれど」とジェーン・バーキンとシャルロット・ゲンスブールのレコードを借りた。物の貸し借りが始まったら恋も始まる。返す時に感想を述べたりお礼をしたりして、カセットテープにダビングをしてもらうところまで漕ぎ着けた(バーキンの方はA面の曲名が全て間違っていて、何のアルバムなのか不明。そういうところも好き)。
しかし、ちらっと横をみたらボーダーのロンTにカーディガン、ボロボロのジーンズにジャックパーセル。そう、同年代のカート・コバーンと出会ってしまった。フレンチポップかグランジか?やはりそこはゲンスブールに調教された女だ。フレンチポップにグランジといちゃつく様を見せつけながら、グランジへと傾倒。だがしかし、「カート・コバーンでも内面カート・コバーンはホント勘弁!」となり離れていくのであった。
「挑発には、それなりのテクニックと気品が必要なのさ」
『Je t’aime moi non plus』は歌詞と喘ぎ声に意識を持っていかれるが、美しいメロディとあの歌詞が融合することで「いやいやそんなこと…」って思いながらも甘美な世界に溺れてしまう。それは「あぁ堕ちていく」状態。まぁ冷静になって考えると、他人の性行為に聞き耳を立てて、うっとりしているという異様な状態なのだが……。しかしゲンスブールに調教された人間は、それを止めることはできない。ゲンスブールの入り口に足を踏み入れたら、出られるわけはないのだから。<肉体の愛に出口はない>ってこと。
『Je t’aime moi non plus』や『LEMON INCEST(レモンの近親相姦)』は、まさに見出しにあげたセリフ通りだと思う。『LEMON INCEST』はショパンの『別れの曲』がベースになっている。性行為や近親相姦といったアブノーマルな世界を歌っているにも関わらず、美しさに負けて「こんな世界もアリ」って思ってしまう。父親である半裸のセルジュの足に娘のシャルロットがしがみついている姿をみても、「シャルロットにとってトラウマでは?」なんて考えることはない。「あぁロリータ」と危険なエロティシズムを肯定し、垂れそうな涎を飲み込みながらうっとりとしてしまうのだ。
挑発と気品。ゲンスブールに惹かれる理由はこれかもしれない。
「スノビズムとは、ゲップになろうかオナラになろうか、迷っているシャンパンの泡である」
スノッブ(snob)は、一般に俗物、またスノビズム(snobbism)は俗物根性と訳され、多くの場合「知識・教養をひけらかす見栄張りの気取り屋」「上位の者に取り入り、下の者を見下す嫌味な人物」「紳士気取りの俗物」といった意味で使われる。(Wikipedia)
スノッブという言葉を知ったのも、もちろんゲンスブールの影響である。あとデカダンスも。
デカダンス(フランス語: décadence)とは、退廃的なことである。特に文化史上で、19世紀末に既成のキリスト教的価値観に懐疑的で、芸術至上主義的な立場の一派に対して使われる。(Wikipedia)
JKの時、友だちが恋人との仲を「私たちはいつまでもデカダンスな関係なの」と話していたことを思い出す。その友だちは、ゲンスブールが亡くなった時の新聞記事を保存していたぐらいだから、骨の髄まで調教されていたのだろう。
スノッブ。私はこの言葉が好きである。現在その言葉が当てはまる人物は、菊地成孔ではないかと思う。そしてゲンスブールも菊地成孔も、それを演じているのではないかと。意識的に演じることで、より一層スノビズムさが増していくと考える。「挑発と気品さ」=「スノビズム」だろうか。私はそういった人物に、いとも簡単に堕ちてしまう。非常に愚かである。
『Chatterton』
好きな曲はたくさんあるのだが、1番好きな曲は『Chatterton』。私にとって応援ソングとなっている。Chatterton(チャタートン)とはイギリスの詩人だ。ニーチェ、クレオパトラ、ゴッホ、シューマンなど自殺した著名人の名を挙げ<俺と言えばそれ以上になれない>と結ぶ。この曲も前述したカヒミのラジオで流れたのだが、カヒミは<俺なんて自殺する価値なんてない>と訳していた。
私は死にたくなると、この歌詞を思い出す。<自殺する価値なんてない>。ネガティブにネガティブを重ねた救いのなさに励まされる。ポジティブをまとった安易な言葉より、何倍も励みになるのだ。そう、私は非常に捻くれている。
きっと私は、永遠にゲンスブールの調教を受けながら死んでいくのだろう。本望である。
『Chatterton』の歌詞でニーチェ、ゴヤ、シューマンを<救いようのない狂人>と綴っているところも好き。曲もかっこいいので、ぜひ聴いていただきたい。