Column

反転するきみ

あん子

「わたしは口を持たずに生まれてきたの」
空白に満ちた視界の真ん中で、シンとたたずんだまま、少女Aはそう言った。彼女の顔の、偽物みたいな肌の上においてある、色のない、けれどしっかりと肉感のあるちいさな膨らみ。ことばにあわせてうごめく、それはじゃあ一体なんだろう。
「これはただ口のように見えるものであって、口ではないの」
空気と限りないまでに調和した音の波が、私の鼓膜をほんのかすかに震わせた。それじゃあ、確かにきこえた、そのか細くはりつめた音色は一体なんだというのだろう。
「これはただ声のように聞こえるものであって、声ではないの」
少女Aは、私を正面から見据えるように立っていた。たえられずに、目をそらしても、彼女の陶器のような瞳は私を離してはくれないだろうと思った。それが怖かったから、私は目をそらさなかった。彼女が語るそのたびに、実態のあやふやな彼女の像はこちらに迫ってくるような気がした。
「ふるい畳の上に寝転がって、短い手足をばたつかせていた。そこにあるのは生ぬるい泥水のような混沌ばっかりだった」
「そうしていたら、指が硬いなにかに触れた。それはペンだった。わたしはその綺麗に尖った先端をジッとみつめ、すこし考え、それからそれを手に握った。ちいさな、まだ箸を持つことさえできない柔い手に」
「そのとき、世界はどこまでもつづく白いページになった」
声のように聞こえるなにかの残響が、無機質な空間で鳴る。

「手伝って欲しいことがあるの」
少女Aはそう言って、私の手を無造作につかんだ。彼女の肉体に触れられることがなんだか意外だった。水分のない、冷たい指先。
手を引かれたまま、私は気づいたら広い公園に立っていた。ブランコと滑り台が騙し絵のように歪んでみえた。
彼女は私の手を離し、しばらく木と木の間をうろうろしていた。腰をかがめて何か拾う。強い日差しが生い茂る葉の間からこぼれおち、彼女のうすくちいさなせなかを、万華鏡のようにリズムよく彩った。ふと、彼女のことを守ってくれる人は一体どこにいるのだろうという考えが頭をよぎる。その感情はどこか懐かしさに似ている。
「これをつかって。地面に文字を書いて」
私のところに帰ってきた少女Aの息はすこし弾んでいる。言われるままにそれを受け取ると、ざらりとした木の肌の感触が手のひらに伝わる。生気を失って折れた、か細い木の枝。
「き、と書いて。大きく。できるだけ大きく」
彼女が何を言っているのかよくわからなかった。けれど、それ以上何も言わないまま彼女は走って行ってしまった。彼女の手にも折れた木の枝があり、身をかがめてじりじりと歩きながら地面に何か書いていた。仕方なく、私も地面に大きく「き」と書いた。大きく、できるだけ大きく。
私たちは書き終えると、ふたりですべり台の上に登り、地面を見下ろした。「 き み 」が横たわっていた。いびつで消えそうな、砂の線で。
私は少女Aを見た。近くにいるはずなのに、ものすごく遠くに見える彼女が、蜃気楼の向こうでゆらゆら揺れた。

時が止まった部屋の中で、少女Aは机に向かっていた。ペンを握り、紙の上に文字を書き連ねる。私たちのあいだには、ペン先が机にあたる心地よい音だけが砂のように積もっていく。
私は彼女が握りしめるペンの先から漏れる、血液のようなインクをジッと見つめている。微熱があるような気がする。それはとても美しい——彼女の右手と細いペンの胴体はいつしか境目がなくなり、血液は指先を通りそのままペンへ、そして文字のかたちとなって紙の上を強く弱く、温度を保ったまましるされてゆく。
ふと、少女Aは顔を上げる。目が合うと、彼女はほんの少し、頬の筋肉を緩めたかに見える。私の目の奥、私も知らないところまでずっと奥のほうを見つめて、言う。
「どこかにいるかもしれない、わたしのかたわれのために」
全て書き終わると、彼女はペンを置き、文字で埋め尽くされた紙を次々に折って羽を与えた。それから窓をあけた。ブラックホールみたいに広くて、シュレッダーみたいに無慈悲な世界がどこまでも広がっていた。少女Aは何も言わずにそこを見下ろし、勢いよくヒコーキを放っていった。

少女Aは運ばれた。凍っているかのような冬の風が、ほんとうは春をひっぱっているのであって、私たちの乗せられた船も、気づかないくらいゆっくりと、どこかへ向かっているのに違いなかった。
ポストにものが入る音がして、私は硬い椅子から腰を上げた。がさがさと折り目のついた紙が、深いポストの底に落ちていた。小さく折り畳まれたそれを開くと、そこには血液のほそいしみが、縦横無尽に道をつくっているのだった。
少女Aの文字だった。
私は彼女のそばへ行き、なにも言わずにそれを手渡した。紙に視線を落とす彼女のしぐさはきれいだった。涙を静かに落とすときのように、まつ毛が熱にふるえ、それから目をあげて、私を見る。笑っている。
「やっぱり、あなただった」
ゆっくり、彼女は机の上のペンを持ち上げる。その確かな感覚は私の右手に伝わる——くるしいほどに濃密でつよいインクをたくわえた、矢のような武器のおもさが、しっかりと、いまここにいる私自身の右手に。
「このペンは、あなたのもの」
反射する鏡の中で、少女Aは言った。私の目が彼女をとらえ、彼女の海みたいな瞳には私がいた。
「書いて」
無限のページが、そのとき、私の世界になった。

Creator

あん子

群馬県出身。相棒は紙とペン、フィルムトイカメラのLOMO LC-A。幼い頃から息をするように物語を書いて生きている。いつかもっと広い場所に届くことを夢見て模索中。noteで不定期にエッセイや小説を更新している。