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ノスタル爺とかエモいとか
私は物事を「懐かしむ」ことがほとんどない。そもそも「懐かしむ」ということをネガティブに捉えている。
2008年のミュート・ビート再結成のライブで、こだまさんがMCでこう語る。
「僕にはノスタルジーはありません。ミュート・ビートがやってきた音楽はいつも新しいからです。流行歌ではありません」。
この言葉をこう解釈している。「ノスタルジー」=「終わったもの」であると。
年末に友だちから、映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』をすすめられたので、映画館でみてきた。「ラフォーレ原宿のナイスクラップが出てきたところで泣いた」「東出がクソカッコいい」など情報を得ていたが、正直なところノスタルジーで終わるようならみたくないと思っていた。しかし「百聞は一見に如かず」ってことで映画館へ足を運んだ。
冷静にみていたのだが、カーステから小沢健二の『昨日と今日』のイントロが流れてきたところで、涙がブワッと溢れてきた。
「ヤバいな。こいつはノスタル爺行き、いやエモいが押し寄せているような気がする。なんならもうノスタル爺行きでいいじゃない」。
私は、次第に映画に流されそうになっていた。
ところが、だ。
浅野忠信表紙のH、小沢健二表紙のJAPAN、エルマロ、シネマライズ、天使の涙、ドゥーピーズ、ナイスクラップ、マヤマックス、ソニック・ユースのTシャツなどをみながら、少しずつ冷静さを取り戻し始めた。
「エルマロは去年何度も聴いたし、ヤン富田も聴いた。ウォン・カーウァイは『恋する惑星』のDVDを買ったばかりだし、ソニック・ユースなんて年末にカセットテープを即買いした。つーか、マヤマックスをみにいくなんてダサくないか」。
男がポール・スミスのシャツを着ているシーンで、むげん堂女が「それポール・スミス?」って聞いた後に、ボーダー&ベレー帽カップルを「みんなと同じ格好をして普通じゃない?」みたいなセリフを吐く。
そこで私は一気に現実に戻った、というか、むげん堂女に対して怒りが込み上げてきた。
「お前に言われたくねーよ」。
○むげん堂勤務、インドっぽいTシャツ、パッチンピン、夏でも長袖を普及したい、ケイタマルヤマのスカートを真似て自分でスカートに絵を描いて1点物気取り。
○付き合ってる男を「君」と呼ぶ、ピロートークに中島らも、文学少女気取って宮沢賢治。
○自分自身は何もできないから身近な人に「小説書いてみたら?」と言う。
服のセンスがクソダサいんだよ!付き合ってる男を「君」って呼んでいいのは『アイデン&ティティ』の麻生久美子だけなんだよ!!ソニック・ユースの音楽なんか聴いてないくせに『Washing Machine』のTシャツをすすめるな!!!
私は、むげん堂女が大嫌いだ。
さらに怒りは止まらない。
私の好きなものたちを勝手に「ノスタルジー」にするんじゃねぇ!今でも追い続けてるんだよ!!終わってねーんだよ!!!
GO ON版『ボクたちはみんな大人になれなかった』
別に、この映画が嫌いなわけではない。なんならもう一度みたい。というか、MTV状態で垂れ流しながら、気になるシーンを一時停止していちいち説明したいぐらいだ。
だから私の『ボクたちはみんな大人になれなかった』を考えてみた。とりあえず女を大きく変えたいと思う(男は現状ママ)。
○ハリウッドランチマーケット勤務、ハットが似合う、季節に合わせたファッション、ブランド品(ギャルソンやA.P.C.)は代官山の古着屋ガレージで買う。
○付き合ってる男を名前で呼ぶ、ピロートークにジャック・ケルアック、ビート文学が好き。
○勝手に人の将来を決めない。
出会い〜待ち合わせ〜初デートまでの流れも大きく変えたいと思う。
○バイト情報誌の文通コーナー→雑誌Hの売ります・買いますコーナー
○小沢健二→小山田圭吾
○ラフォーレ原宿でWAVEの袋を持って待ち合わせ→ワタリウム美術館でZESTの袋を持って待ち合わせ
○マヤマックス→ナム・ジュン・パイク
○喫茶店での会話「僕はよくわからなかったです」→現状ママ
ラブホばかり出てきたけど、あの辺ならクラブへ行くシーンも入れたい。行くならオルガンバーだな。
女の将来はこうしよう。
○2人の子持ち→益子でカフェギャラリーのオーナー
ハリラン勤務で、四半世紀後に益子でカフェギャラリーのオーナーになっているような女だったら、男がいつまでも引きずる理由が分かる。しかし、むげん堂女をそんなに引きずる理由が全く分からない。東出がもっとアドバイスしてやれば良かったんだよ。
これらはサブカルチャーではない
そんなことを言っても、GO ON版『ボクたちはみんな大人になれなかった』に共感する人は少ないだろう。だから売れない。そんなこと分かってる。でも、どうしても伝えたいことがある。
この映画をみて「90年代のサブカルってこんな感じなんだ〜」って思ってしまった若者よ。こいつらは、サブカルチャーへ行けなかったサブカル気取りのメインカルチャーの人間なんだ。だから勘違いしないでほしい。小沢健二はサブカルチャーではないよ。
「サブカルチャーへ行けなかったサブカル気取りのメインカルチャーの人間」が増殖した結果、「サブカルチャーは終わった」。と私は解釈している。
そういった意味でも『ボクたちはみんな大人になれなかった』に怒りを感じた。そして、私にとってこの映画はノスタル爺でもエモいでもなく、走馬灯だということが分かった。きっと、死ぬ間際にみるのだろう。
今月の私の妄想映画館では、1日中『ボクたちはみんな大人になれなかった』を上映したい。ディテールまで注視して、90年代要素を全部書き出そうではないか。そして泣いたり笑ったり怒ったりして、大いに盛り上がりたい。
※今月は「空白の時代」をテーマにしたコラムにしたかったのだが、この映画のせいで急遽内容を変更しました!