私はシンプルな人間です。
楽しいときは楽しい音楽を聴くし、怒っているときは激しいハードコア・パンクなどを聴いてアングリーな気持ちを発散させたりします。
ここしばらくは少し悲しい気持ちです。
好んでニック・ドレイクの『ピンク・ムーン』を聴いています。70年代の前半に発表されたこのフォーキーでちょっぴり悲しそうなアルバムは、ほぼアコースティックギターとボーカルのみのシンプルな構成なのですが、ギターを弾く音、ボーカルの発する声1つひとつに強い思い、迫力、というか怨念のようなものがこもっていて、聴くたびに圧倒されてしまいます。
これほどの作品が発売当初あまり評価されず、ニック・ドレイクはその後すぐに亡くなってしまった事実も、全体のもの悲しさを際立たせているような気がしてたまりません。
ではなぜ、ニック・ドレイクを聴いて悲しみに浸っているのか。
新卒で入った会社を今年の2月にクビになったからか。そうかもしれない。
でもそうではないのです。
理由は1つ。『かじるバターアイス』を食べることができなかったからです。
『かじるバターアイス』とは、赤城乳業から今年の2月に発売されたアイスクリームのことです。まるでバターそのもののような濃厚な味、濃密な食感に、多くの人がSNS上で「おいしい」と絶賛していたのを見て、自分も「ぜひ食べてみたい」と思っていました。全国のスーパー、コンビニに置いているとのことで、ならばぜひとも見つけて食べようと、私のバターアイス・ディグが始まったのです。
まずは家から1番近いコンビニに行きました。よく利用するコンビニです。
アイスクリームのコーナーには『かじるバターアイス』が、無い。牛の絵が小さく描かれたシンプルなパッケージなのですが、見当たりませんでした。既に売り切れたのか、はたまた田舎ゆえに置いていないのか。近隣にはコンビニがもう2件ほどあったのでそちらも当たってみましたが、やっぱり無い。
そんなものかと少しがっかりしながら、その日は帰路につきました。すぐに見つかると思いましたが、なかなか見つからない。そんな日がずっと続いたのでした。
いつのまにか、『かじるバターアイス』を探して既に1ヶ月以上が経過していました。
住んでいる栃木県佐野市のコンビニを訪れては、バターアイスを見つけることができずに帰宅する。なんなら市をまたぎ足利市や宇都宮市にもバターアイスを探しに行きましたが、同じように何も得られません。
ネット上には「生産が終了したのではないか」、という真偽の定かではない情報がちらほらと投稿されていました。何も手に入れられないまま、時間だけが過ぎていきました。
この小さな町における、私のバターアイス・ディグには限界が見えているようでした。
ディグという言葉を既に本文で何回か使っています。
先月のコラム内においても、BEDROOM RECORDSの2人が「よくディグる」、とお話ししていましたね。『かじるバターアイス』を探すことを『バターアイス・ディグ』と表現しましたが、そもそもディグというのは楽しく夢にあふれた素晴らしい行為である一方、本当につらい作業でもあるのです。
欲しいレコードを見つけるためにレコード棚をトコトコとチェックしていくわけですが、欲しいものはなかなか見つかりません。個人的にさほど欲しくもない、アリスやさだまさしなどのレコードを何百枚もくぐり抜けて、ようやく何かにありつける感じです。何かにありつければいいほうです。
レコードに興味が無い方からすれば、苦行のように思われても仕方ないかもしれません。それでも、中古レコードの入った箱にはロマンがあります。ロマンゆえに私はディグをし続けるのです。
ディグへのスタンスに関しては、自分が幼少期に楽しみに見ていた『藤岡弘探検隊シリーズ』から影響を受けているかもしれません。
説明が要りそうなので説明すると、俳優の藤岡弘、さんが毎回屈強なメンバーを連れて、世界各地の未確認生物(UMA)を探しに行く番組です。勿論一筋縄ではいきません。彼らの行く先では、道を歩いているといきなり巨岩が転がってきたり、現地の川でメンバーがおぼれそうになったり、苦難が必ず待ち構えています。それを乗り越えて、UMAの痕跡を見つけたりするのですが、最終的に惜しくもUMAに遭遇できず帰路に就くのです。
それでも番組の最後、壮大なBGMをバックに流れる「我々は○○に遭遇できなかった。しかし、この広大な森の中に、必ずや○○は潜んでいるのだ」というロマンあふれる言葉を聞くと、自分も外に出て探検に出ようと強く思ったのでした。
時は流れ自分の興味が音楽へと移っても、苦難の先に発見がある(かもしれない)という原点の教えは、ディグ行為そのものに引き継がれたような気がします。
『藤岡弘探検隊シリーズ』から学んだロマンと探求心を基にして、過酷なディグに対しても一抹の希望を胸に進み続けるのです。
話が大きくそれましたね。本題に戻ります。
しかし軽い気持ちで口にしたディグの言葉通り、バターアイスは見つからずこの作業は最終的にやっぱり、つらいものへと変わっていったのでした。
人間あきらめも肝心です。結局、私はバターアイス・ディグをあきらめました。この街にはそんなものはない。そういう風に思うことにしました。
『かじるバターアイス』は食べられませんでしたが、そのうちミーハーな私はSNSなどで見つけた話題の新しい食べ物に夢中になり、また同じように探し回ったりするのだと思います。その過程で『かじるバターアイス』など、頭の中から消えてしまうでしょう。
情報として多くのことを頭の中に吸収し、同じくらい多くのことを忘れる日々はこれからもずっと続きます。「ヒトというのはモノを忘れることで生きていく動物なのだ」と、学生の時に何かの本で読みました。
私は物忘れが多いほうなのですが、それが生きていくために必要なことなのだと言われると、少し納得してしまうような気もします。楽しい思い出も、いやな出来事も、いつかは忘れてしまいます。『かじるバターアイス』のことも、頭の隅へと追いやられていくはずです。
もちろん、良い思い出か、そうでないかに関わらず、忘れられないこともあるでしょう。そういう思い出ほど、自分の中で大切なものへと変わっていくものです。
ニック・ドレイクの『ピンク・ムーン』のレコードを棚から引っ張り出して回すたびに、私はパブロフの犬のように、このアイスクリームを巡る日々や、『かじるバターアイス』をかじれなかったという、つまらないことを思い出すのかもしれません。
かじることすら許されぬ幻のアイスクリームに対して、いつまでも苦虫を噛み潰したような顔をしているのかもしれません。