Column

第2次青春時代

PEANUTS BAKERY laboratory

2022年1月10日(月)成人の日

帰宅後、今年初めて起こした元気なレーズン酵母で食パンを、そして弱くなったレーズン酵母でパンケーキの仕込み。

みっちり仕事の復習をして、充実した1日の褒美にゆっくり湯船に浸かりながら『村上RADIO』のスタン・ゲッツ特集を聴き、風呂上がりにパック。歳に拘りはないけれど、肌だけはきれいだったらいいなぁと思う(だからと言って普段特別何かしているわけではないのだけれど、たまにしっかり手当てしてみる)。

今日は成人式。20歳の頃は何してたかな。まだ実家にいたから家庭のことで苦しくて悩みもたくさんあったと思う。でもその時はユキエ(GO ON編集人)とS氏とも出会っていたので、山ほど楽しいことも経験したと思う。

成人式の日には、確かS氏と反逆児の逃避行のように雪深い福島の只見線に乗り『たもかく古本の森』へ旅をしていたと記憶してる(雑誌オリーブの見開きで松浦弥太郎さんが、たもかくの本の山の中に半分埋まってバンザイしている姿に憧れて)。

22年前、成人の日の思い出

20歳のわたし

20歳の時、新宿の美術学校に通っていました。

自分のポケットはすっからかんで、まだ人と語れるほど夢中になれる何かなど持ち合わせていなかった頃、クラスメイトとして2人に出会うのです。しばらくして何故だか共に過ごす時間が増えてきて気がつくのですが、既に語るべき事を(自分が何を愛し何を好ましいとしているのか、選ぶべきもの不要なもの…)きちんとポケットに整理してすでに持ち合わせている、という事。自分との決定的な違いでした。

様々な音楽を聴き、映画や読書体験を積んできたユキエとS氏の会話の狭間で、一生懸命聞き漏らさないようにトコトコと追いかけながら、私もちょっとずつ自分のポケットを膨らませてゆきました。

鬱屈とした内面を抱え悶々としていた私とは異なり、常に2人はフランクで明るさとユーモアがありました。私はそんな彼女達が大好きになり、気後れすることなく、珍しく自分らしく存在することができた気がしました。

ミニシアターでゴダールやトリュフォーなど60年代のフランス映画を鑑賞し、カヒミ・カリィやフリッパーズ・ギターを聴き、神保町を歩き、オリーブ少女であり、岡崎京子を大島弓子を読み、『やっぱり猫が好き』を観ては笑う。フリーペーパーを発行し、ギャラリーで架空のカフェをつくり…。

そんなことを3人で集まっては、繰り返していた気がします。その時に何を食べたとか飲んだとか、食べ物に関する記憶は何故か一切出てきません。飲まず食わずだったのかな。

食べものの記憶はさておき、一方で私はパンクロックに夢中になり(ピンポイントではあるが)傾倒してゆきます。ピストルズのジョニー・ロットンの、マイクになだれかかり歌うあの姿と声をかなりかっこ良く感じていたし、たった1枚だけ発売したアルバムを何回も聴きました(もしバンドを組んでボーカルだったら、あんな感じに歌いたいとまで空想していた)。

ブルーハーツのアルバムは当時全部持っていて、全ての歌詞を未だに全部歌えるであろう唯一のロックバンドでもあります。その中でもテンポが速いライブアルバムばかりを繰り返し繰り返し聴きながら、たくさんひとりで泣いた夜もありました(僕達は泣くために生まれてきたわけじゃないよ、とヒロトは歌うけれど、それにまた泣く)。

町蔵の『メシ喰うな!』にも熱狂しましたが、キヨシローのRCサクセション時代の歌を聴き、『十年ゴム消し』を読むことが何よりのお守りであり、唯一の心の拠り所でした。彼の歌詞やメロディー、歌声には内気で弱くてダサくて夢見がちな当時の私が丸ごと含まれていたからです。

当時の本棚。ピストルズの写真集の5冊隣には『心地いい暮らしがしたい』素食の献立集がある

パンクロックとわたし

美術学校へ通う前、私は地元の進学校に通っていました。その頃私は長く家庭の問題に内心悩み続けており、いつだって将来の展望なんて全く考える暇もなく、ただ今の苦しさからどうしたら解放されるのかなということばかりに時間を費やしていました。

気がついた時には周りはちゃんと大学受験の準備を進めており、自分だけが波が引いた砂浜にぽつん、と取り残された状況になっていて唖然となるのです。

この先の事など考えていなかった中で、ただ大学を受験するという意欲も湧かずに途方に暮れていた頃、アルバイト先のパン屋にいたアメリカ帰りの美術を学んでいた人と、よく芸術や音楽の会話をする中で急に「そっか、絵を学ぶ事にしようかな」と感じたのです。

絵は、唯一好きと言えることでした(特別な道具は不要で、1人で自分の部屋にいたら誰にも迷惑かけずできるため、紙の上にはいつも自由がありました)。

その後、急きょ学校を選択し、出会った2人から影響を受けた60年代の映画や90年代ポップス。独自にのめり込んだパンクロック。当時どちらも同じ濃度で自分の中に鮮烈な衝撃として飛び込んできて、どちらもがあの時の自分には不可欠な要素でした。

パンクロックは、毎日鬱々とし暗くて解決策も見つからず、どうしようもなく途方に暮れていた自分に「それはあなただけではないんだよ」と教えてくれたし、それまで剥き出しだった自分の心を守る強く厚い壁にもなりました。

けれどもしあの18から20歳の間、パンクロックを聴き、つげ義春ばかり読む自分だったら、内面から沸き出る苦しみや悩みと向き合い立ち向かうことはできたかもしれないけれど、色の無い日々だっただろうとも思います。

モノクロからカラーの人生

2人のフィルターを通してゴダールの映画やゲンスブールのミューズ達、フリッパーズの音楽や岡崎京子の漫画(『リバーズ・エッジ』よりも『くちびるから散弾銃』)、信藤三雄のアートディレクション、ピチカート・ファイブ…に出会うことにより、私のモノクロ人生に初めて色がついたのだと思います。

洗練と軽薄。茶目っ気と、色気、皮肉。切れ味のよいナイフのようなクールさ。どれもパンクロックとは無縁。色は夢でした。愉しさとか、可笑しみとか光とか、軽さとか、そういう宝物のようにキラキラしたものに全てが映りました(連れだって映画を観たりCDや本の貸し借りをしたり1人ではできないこと)。それまでそんなことなかったから、すごく嬉しかったのです。

2人と過ごした2年間は「自分年表」の中で、初めてやってきた青春時代と位置づけられます。家や地元から学校も遊ぶ場所も遠く離れる事で、締め付けられていた(と感じていた)感受性が解放され、やっぱり世界は自由で、誰の所有物でもなく「私も何か好きなもの、夢中になれることを見つけたらそれを手放すことなく大事にしたり、思いきり楽しんでいいのだ!」と柔らかく新鮮な心ではっきりと自覚することができました。

その後、しばらくして製菓製パンの世界に入ることになります。これは絵とは逆に家を出るまで全く経験できなかったことですが、だからこそ自立してからは心おきなく存分に楽しんだと思います。今度は反動で夢中になりすぎて、また目の前のことばかりで未来を描く事なく、およそ20年過ごすことになるのですが…。

現在私は41歳。ようやく顔を上げ前を見据え、誰の思惑にもとらわれず自分の未来を想像することができています。

先日、屋号が完成しました。この看板を背負って小さな自分だけの箱の中で作品を発表してゆきたいです。デザインはS氏に依頼しました。最高です。そしてこの屋号での初の仕事が轟音コラムの執筆となります。これも最高です。

2022年はもしかしたら第2次青春時代に突入したのかもしれません。はらはらします(青春時代は何が起こるかわからないものですから)。

Creator

PEANUTS BAKERY laboratory 長谷川渚

1980年生まれ、神奈川県秦野市存住。パンを焼き、菓子をつくり、走る人。開業準備中。屋号は幼少期から常に傍らに居続けるSNOOPYのコミックのタイトル、及び秦野市を代表する名産物である落花生から。「laboratory=研究室」というと大袈裟な聞こえ方だけれど、かちっと決めてしまいたくない、常により良さを求めて試行錯誤する場所、自分でありたいという思いを込めて。