もうずっとこんなことばかり考えている。何年も前に、遠いどこかに置いてきてしまったはずの、感情の起伏をそのままダイレクトに音に置き換えた、僕らの生きる糧「インディーポップ」。
音楽とは理論ではなく、シンプルなコードとメロディが瞬間、奇跡的に交わることで、見たことも聴いたこともない進化を遂げる。僕はずっと、そういうものが好きで、そういう交わりが好きで、ずっと旅をしてきたのかも知れない。歳を重ね、大凡の事は頭で理解出来るようになり、理解も分別も、好きも嫌いも、ある程度消化出来るようになった。記憶の彼方に置いてきたもの、それでも気が付くといつも僕の傍らにあったインディーポップ。結局のところ、そんなポップミュージックがずっと好きでいられるのは、本当に幸せなことなのだ、と思う。
「WebマガジンGO ON【轟音】」での執筆は今号を含めて残り2回。来年以降はまた自分のところに戻るつもりでいる。ここでの執筆活動は自分にとって、とても新鮮で深い経験となった。ネット媒体という部分、通常のブログではなく「轟音」という看板を背負うという事、僕が今までやってきた事と、これから目指したい事、言葉の使い方と考え方、意思を伝えるという事、その他いろいろな事柄が、ここで揉まれることで、かつてない貴重な経験となった。こういう機会を与えてくれた編集長に感謝しています。本当にありがとうございました。
続けていく事と、終わりゆく事。本来「永久不滅」というものは存在しないのだと思う。未来永劫、滅びないものはこの世には存在しないのだ。人は生まれて、いつか必ず死ぬ。物はいつか必ず朽ち果て、意識は消えて無くなり、考えていた事すら忘れ去られる。生と死が常に背中合わせである事、これが「生きる」という事であり、その裏側には必ず「死」が存在する。いつか終わる事は、誰も避けて通る事が出来ない。故に大前提として「永久不滅」はあり得ないのだ。
ただ、そこに「未来」を主語とする「未来は永久不滅」とすると、意味が変わる。これから起こる「未来」が「永久不滅」とは、時間は永遠にやってくる事と同義となり、個ではない世界が滅びてしまっても、未来はやってくる、ということになり得る。まさに「未来は永久不滅」という概念が不自然なものでなくなるのだ。時の流れが止まらない限り、常に未来はやってくる。僕らの記憶するものは、常にその流れに乗った状態で、上書きされていく。その流れに付いていけないのは、滅びる運命にある僕ら自身ではあるけれど。
インディーポップ系のバンドは(いくつかの例外もあるが)大抵短命に終わる。瞬間を切り取ったかのような一瞬のきらめきを封じ込めた音楽は、長続きしないのだ。むしろそれでいいと思うし、だからこそその音楽にときめくのだと思う。言ってみれば「青春」のようなものであるし、期間限定で誰もが通る時間と道だからこそ、理屈ではない魅力にあふれているのだ。
5年ぶりに待望の新作を発表したカナダのインディーポップバンド<Alvvays(オールウェイズ)>。時代を代表する傑作と言われた前2作から5年、決して枯れることなく、バンドは快心のアルバムを引っ提げて戻ってきた。これはもはや「事件」である。この5年というブランクはこういったバンドにとって決して短くはない。いくつもの素晴らしいバンドがそうであったように、時代に刻まれる傑作を残したまま消滅してしまっても何ら不思議ではないからだ。でも、彼らは戻ってきた。だから「事件」であるのだ。
「限られた時間だからこそのきらめき」「未来は永久不滅」「期間限定の執筆活動から得る事」。
終わりがあるからこそ、輝ける。今までいくつもの素晴らしいバンドが、生まれては消えるという歴史を見てきた。これはまさに正しい歴史であり、それ自体を否定することではない。終わることを前提とするのは、決して消極的な意志の表れではないのだ。むしろ、終わらない事を否定する方が、現実的ではない。インディーポップは常に現在進行形な意志から生まれる、現代を生きる僕らのための音楽である。いくつもの意志が生まれ、共感共鳴し合い、時代に刻まれ、僕らの心に残る。そして、あの一瞬のきらめきを見てしまうから、また見たくなる。始まりと終わりを繰り返すことで、僕らの時代が生まれ、僕らの世代を生み、また次の世代に引き継がれていく。世代から世代へ、故に「インディーポップの未来は永久不滅」なのだ。
さて僕のこの1年間の執筆は、何か次に繋がる礎になっただろうか。言葉を紡ぐという事は、意識を紡ぐという事。自分のため、これを読んで頂いた方々のため、そして未だ見ぬ誰かのためで在りたいと願って。
今はこの素晴らしき新作を携えて戻ってきたAlvvaysがいる「今」を楽しむことにしよう。