前口上
先日行ったお笑いライブ中、おほほ、今日もおもしろいね、とご機嫌で見ていた時、後ろで携帯のアラーム音が鳴った。まだ鳴らす人いるのか…ここが小さな劇場だったからよかったけど…いやよくないけど…せめて無音にしとけよ…など思ったが、まず一番疑問だったのが、着信でなくアラームだったことだ。ライブを見てる最中に鳴るようセットしたであろうアラーム、一体なんの為になのか、普通に疑問だった。もしも、観劇中にアラームかけたことあるよーってかたがいたら、ただ理由を聞きたいので、こちらまでお願いします。
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問わず語りの神田伯山
よく聞いているラジオ番組で、講談師六代目神田伯山のリズミカルな喋りが大変笑えて気持ち良く、笑い屋シゲフジのやけに甲高い笑い声がたまに気持ち悪い。どんな出来事もおもしろおかしく話し、真剣に語りかけ、飽きずに聞けて同じ放送を数回聞くこともある。
講談師は嘘しか言わない、なんて言われるそうだが、毎週番組の冒頭、伯山の語りが入る。
「子どもの頃、私にとってラジオは、大人の本音が聞ける場所でした。人に届く本音、言葉を選んだ本音を聞けるのは、ラジオだけだと思っております」。
先日行われた、新春連続読み『畔倉重四郎』名古屋公演でのこと。6日間連続興行中の5日目ここ一番の、大変悲しいシリアスなシーンで、客席から携帯電話の音が鳴り響いた。伯山は次の言葉を言おうにも、憤りでセリフが出てこなかったそうだ。普段ならそのまま演じ続けるが、一旦はなしを止めた。「いやもう、これはもう無理ですわ…」と腹立たしくてどうにもならない気持ちを吐露すると、場はキーンと凍てついた空気になった。そこからどうにかこうにか皮肉な小笑いにしたが、止めてしまった話と観客の集中は、もう戻らない。
ラジオを聞きながら、背筋がゾッとした。凍てついた空気にではなく、講談師がどんな思いで舞台に立ってるのかを想像して。
「応援してますよ」
その日の終演後、観客からのアンケートにこのような内容があった。
『携帯電話が鳴ったくらいで怒りすぎですよ。もう少し大きくなって下さい。色々あると思いますけど、応援してますよ』
年寄りか若いのか女か男か知らないけど、なんて醜いんだ!二度と来るな!お前みたいな奴が携帯鳴らすんだよ!「応援してます」ならわかるけど、最後の「よ」、が腹立つの!わかる??!!
伯山は、私が聞いてる過去イチ、ブチ切れていた。講談師や芸人が客に「二度と見に来るな」と言うのは相当なことだ。少し大きな劇場ならしつこい程、開演前に電源オフにして下さいとアナウンスしているし、もし寄席のような場で音が鳴ってしまっても、滑稽話の時はなんとか笑いに変えられるが、笑いなしの重要な見所では、どうにもできないのだと言う。
投げやりになりそうな伯山をそれでも思いとどまらせるのは、時間とお金を使って見に来てくれる観客との〈信頼〉関係を結んでいるからこそ、ということだった。
誰がために携帯は鳴る
伯山は続ける。
かの落語家七代目立川談志は「文明は文化の邪魔をしてはいけない」と言ったそうだ。いま、携帯電話という文明が、伝統芸能という文化の足を引っ張っている。文明は、人が便利でしあわせに過ごすために在るはずなのに、これが起きることでいま、芸人が確実に不幸せになっている、と伯山は言い切って、再度キレ出した。
しかもこういう事に誰も怒らないし何も言わない。落語評論家みたいな奴は、そこを笑いに変えるのが芸人としての懐の深さ云々とか、あいつらバカだからそんな事しか言わない。俺だって、滑稽な劇中に携帯鳴ったことなんて何度も何度もあって、その度笑いに変えてきた。でもシリアスなシーンでは本当にどうにもできないし、はなしを壊すことになる。そして笑いにすればするほど、鳴らすような観客は反省しないで繰り返す。
「どうせミヤネ屋とか見てるじじいばばあが鳴らしてるんだから、ミヤネは番組内で携帯電話の電源の切り方を教えとけよ!それくらいの役割を担ってくれよ!不倫とかどうしょもねーことばっか言ってないで!!」とその日一番でかい声で叫んでいた。
偏見じゃね、とも思ったが実際に鳴らす人には年配のかたが多いのだろう。
電源を落とさない理由として、舞台を見ているこの数時間のうちに連絡がくることはないだろう、と高をくくっているのではないかと勝手に想像した。それとも本当に電源OFFの方法を知らないのかも知れない。
しかしそんな時に限って電話が鳴るのが世の常で、つい先ほど日々ほぼ鳴ることのない私のiPhoneが、知らない番号を表示して着信した。おそるおそる電話に出ると、市立図書館より、返却期限が1日過ぎてますという催促の電話だった。
こういった、予期しないというより完全に忘れていた連絡は突然くるため、本の返却期限は守ろうと思う。