Column

無題

髙橋奈鶴子

「私たちって、ずっと動いているな、と思って」。

いつものように、丁寧に私の髪に櫛やハサミをあててくれていた美容室valoのようこさんが言った。かれこれ15年程お世話になっている美容室valoで、ようこさんに髪を切ってもらう時間は世俗の一切合切を一旦脇に置いて、かつ自分の一部を切り落とすという、ただ身なりを整える以上に、儀式的な祈りに来るような、私にとっての習慣なのであって尊い。寺や山へ入るときの思わず一礼したり合掌してしまう、あの感じと言ったら想像がつくだろうか。

たいていは髪型の大体のイメージを伝えて、互いの近況の話をして、私は<儀式>に心身を澄ますために目を瞑るのだけれど、その日は音楽を通じた共通の知り合いがいることの話題から、私は嬉しさで興奮気味になっていて、おしゃべりが途切れながらも続いていた。

その流れの中で「私たちは動き続けている」という至極当然のことが、そのときの私の琴線に触れて、仕上げのシャンプーに移る頃には自然にいつもの心地よい沈黙になっていたけれど、頭の中では残響したまま。いつものように、ようこさんが店の外まで来て見送ってくれる帰り際に、お土産に毎度持たせてくれるホットコーヒーを片手に、さっきのようこさんの言葉がひっかかって仕方ないことを告白し、互いの日々の健闘を祈り、手を振り、私は夜の薄暗いアーケード通りを駐車した車に向かって歩いた。

私たちが生きている最中は選択の連続。大きな動機や要望、目的が明晰なものもあれば、それらのひだは目立たないものもあるだろう。むしろ、自分自身では「私は今選択をした」と意識していない場合がほとんどかもしれない。いちいち細分化して確認していたら気が滅入るし、選択していると自覚する時間を許されないほどに、私たちの時間は容赦なく流れていく。待ったなし。だから自分のことを全てコントロールできると思うのは気のせいで「自分の意思で選んでいる」と思ってしまっていることの大半は、何か大きな流れの範疇で許された自由なのではないか、と考えると気持ちよく諦めがつく。

だからこそ、自分の中にわきたつ衝動のままに、ある程度それを解き放って流れに委ねてみるのもいいのかもしれないとも思う。「動く」ということも、誰かに会う、どこかへ行く、何かを食べる、などのように明らかに目に見えるものや自覚化された「選択」という工程を踏むものもあれば、心臓の鼓動やそれに伴う血液の流れ、排せつなどの意思の及ばぬものがあるように。

「動き続けている」ということを自分の生活と照らし合わせて考えたとき、私はこれまで関わってきたことや人を潔く葬って、まったく新しいことを始めたという考えはない。そんな要領よく割り切れるタイプではなく、むしろ、粘っこくて妄想する時間が長くて執着する方だと思う。

それでも、あまり力まず鼻息静かに動くことができるのは、自分の乗っている小舟から他の小舟に乗り換えられたのではなく、自分ではどうにもならない力を借りながら、櫂を動かして少しずつ流れを変えてきただけなのかもしれないと思う。

あのタイミングで櫂を入れたおかげで、小舟はひっくり返って濁流にのまれた私は死ぬかと思ったよね、と回想されることもいくつもあるにはあるが、その時、櫂を動かすことが結局よかったのか、そうでなかったのかの判断は私にはできない。

そんな曖昧さを保っていたいので、私が思う「あれは櫂入れだったな」と意識下にある記憶や事柄について、GO ONという場所をお借りしてときほぐしてみたいし、無数の選択があっての今を、自分なりに認識することを体感できたらとも思う。流れをほんの少し変えることはいつでもできるということも、つい脳内にひきこもりがちな私に向けて言い続けていくためにも。

Creator

髙橋奈鶴子

群馬県桐生市在住。教育、医療、料理、福祉の仕事を経て、現在は新聞記者として働いている。