『動物咬傷(熊)』
カルテにはそう書かれていた。
「いや〜、こんなカルテ、初めて書きましたよ」
医師が心なしか嬉しそうに話す。
ここは県央の某大学病院。
時刻は朝方5時をまわったくらい。
朝日が強烈な光を放ち、カーテンの隙間から溢れて入ってきていた。
お盆休みも後半を迎えた2020年8月の中頃、本来なら今頃鹿沼の山奥で友人とヤシオマスを釣っているはずだった。
コロナ禍における私の楽しみといえば、管理釣り場でのトラウトフィッシングであった。
要はマスの釣り堀なのだが、北関東、特に栃木県・群馬県は全国的に見ても集中して管理釣り場が存在し、それぞれ様々な特色を持つ「管理釣り場激戦区」だ。
また管理釣り場発祥の地としても広く認知されている。一口に釣り堀と言っても、奥が深いのだ。
今回訪れた管理釣り場も、4つある池の内1つが”村田基プロデュースの大物池”という触れ込みで40センチ以上の大物しか放流していなく、栃木県のブランドマスであるヤシオマスがメインで放流されているとのことだった。
村田基と聞いて反応するのは30代以上のアラフォー世代かと思う。
グランダー武蔵世代である私は小学生の頃、例に漏れず釣りにハマった。やがてブームが去り、周りの興味が遊戯王か何かに向かう中、私はそのまま釣りにのめり込んでしまうのだった。
高校生くらいから興味は音楽へと移ってしまったが、それでも年に数回程度は釣行を重ねる、いわゆる”にわか”アングラー(釣り人)であった。
それが今回のこのコロナ禍を生きる上で、都合の良いディスタンスを取れる外のレジャーだということ、近年の多種多様な管理釣り場の状況や、それに特化した釣り道具の進化等、様々な条件が揃ってしまい、この1年で釣りに対する熱量が上がってしまったのだった。まあ、”にわか”に毛が生えた様なものだが、正直に言うが最近ではレコードよりも釣り具の方にお小遣いを注いでしまっている。
そんな中迎えたお盆休み。
思えば、その日は始めから何かがおかしかった。
釣行前日の夕方に友人と合流。そのまま「佐野やすらぎの湯」へ向かった。
サウナーである友人から手解きを得て、無事私もいわゆる”ととのう”ことに成功し、露天風呂のベンチに寝転び夢見心地で外気浴を楽しんでいた。
ひと通りサウナを楽しんだ私たちは、ふわふわした状態で管理釣り場へ向かう。
休日の深夜に山へ向かうという特別感からなのか、サウナで”ととのった”せいなのか、夜風が心地良くドライブも気持ち良い。1時間程度走り目的地へ到着した。
時刻は23時をまわったくらい。
着いてみて驚いた。
この辺りは街灯もなく、月も山に隠れてしまっているため、完全なる暗闇の世界が広がっていたのだ。夏場の人気のない山奥、普通の感覚なら、ここで危機察知能力というか、動物的な勘のようなものが働いて「怖いな」とか「気をつけよう」というような気持ちになりそうなものだが、サウナで”ととのい”、ドライブを経て、後の釣り、帰りにまたサウナ、からの「もっくもっく」で乾杯。
そこまでのシナリオを完全に作り上げてしまっていた私たちには、考える術などもうなかった。
その時私が抱いていた感情はこうである。
「星が綺麗」
アホ過ぎるが、事実、街灯も月灯りも無い山奥で見る星はありえない程美しかった。
しかもちょうど前日がペルセウス座流星群の極大だったこともあり、短時間で10個以上の流れ星を見ることができた。
釣り場のオープンは4時30分。
事前に調べたネットの情報では場所取りが可能とのことだったので、仮眠をとる前にポイントへ椅子を置きにいくことに。
この時、釣り場のルールを守ることだけに意識がいってしまい、自然界のルールを全くもって破ってしまっていることなど気付いてもいなかった。
たまたまLEDのヘッドライトを忘れてしまった私と友人は、それぞれのスマホのライトを頼りに暗闇の中ポイントへと向かった。
無事ポイントに着き椅子を置いたその時だった。友人は少し後ろを歩いていた。
「…バシャバシャバシャッ!!」
すぐ後ろの生け簀のような水深の浅い池から、何かが水中で暴れるような音がして慌てて振り返る。「魚が跳ねたのだろう」とライトで照らしてみる。
ところが、そこにいたのは体長1メートル以上はあるであろう大人のツキノワグマであった。
水に濡れ、ライトに照らされた身体は黒光りしている。
そこからのことはスローモーションの断片的な記憶になってしまうが、遭遇した時点で距離が近過ぎて完全に臨界距離を超えていたクマは、興奮した様子でこちらに向かってきた。
慌てた私は後退りし、つまずいたか足を踏み外したかで池に落下してしまう。それに更に興奮したのかクマは池に飛び込み私の元へ泳いできて、右肩に覆い被さった。アドレナリンが出ていたのだろう。痛みは無いがどうやら噛み付かれているらしかった。
暗闇の中、水中でクマに噛まれながら岸の方に目を向けると、友人が両手を挙げ、ウォーっと唸り声をあげているのが微かに見えた。その状況で言うのもなんだが、それが可笑しくて笑いそうになってしまった。なんならクマもそのつぶらな瞳がちょっと可愛くさえ見えた。
どれくらい水中で踠いていただろう。しばらくしてクマは山へと帰っていった。
力が入らなかったが、どうにか岸へ上がる。
もちろんびしょ濡れで、右肩は血が滲んできている。
サンダルは片方なくなっていた。
スマホはどこかへ落としてしまったようだ。
電子タバコの僅かなライトを頼りに車へと歩く。
ふと左手に何かを握っていることに気付き、よく見てみるとそれは前歯だった。どうやら池に落ちた時にぶつけたかで抜けてしまったらしい。痛みは全く感じなかったが、下唇の内側の肉がベロンと剥がれてしまっているようだった。血が止まらない。
しばらく歩くと前方に気配を感じる。警戒してよく見ると、先に戻っていた友人で安心した。車に戻り、救急車を呼んでもらおうとするが、電波が入らないことに気付き、そのまま友人の運転で電波の入るところまで下山することに。びしょ濡れだからなのか、動物に噛まれた後遺症なのかはわからないが、震えが止まらない。
しばらくして無事に電波も入り救急車を呼ぶことができ、そのまま下りつつ救急車と落ち合い病院に搬送された。
右の手首、腕、肩と合計3箇所に噛まれた跡があり、背中と腰と喉元にはまるで絵に描いたような爪の引っ掻き傷があったが、そちらは幸い深くはなく大事には至らなかった。
それからは然るべく処置を施して貰い、冒頭の件りに繋がる訳だ。
これが2020年のコロナ禍に起きた、私の間抜け過ぎるクマとの対峙体験である。
ひとつ言えることは、クマは悪くないし、浮かれきって山を舐めていた自分が完全に悪いということだ。その行動一つひとつが今思い返してもアホらしくて笑えるが、自分への戒めも込めて包み隠さず書いてみた。
それでも退院した翌日はなんだか自分が情けなくて、本来ならお盆休み最終日になるはずだった日曜を自宅で静かに過ごしていた。
スマホがないのでパソコンでインスタグラムにログインしてみると、1件のDMが。
差出人はYusuke Okadaとある。
岡田さんはNY在住でSUSPICIOUS BEASTS、LOST BALLOONSのフロントマンであり、画家でもある。2019年の暮れに帰国した際には、足利でHELMET UNDERGROUND & RIKOと共同で個展もして頂いた。
こちらが一方的なファンである岡田さんから、事務的なこと以外で連絡などきたことがないので、びっくりして開いてみるとそこにはこうあった。
「しいなくん元気ですかこちらは普通にコロナ あとペイジ双子が生まれるんだびっくりだね
知り合いのバンド、Ezratていうeztvの新しいプロジェクトのlpをゲットして今聴いてるんだがこれは超オススメだよ 多分好きだと思うよ!
今日ずっと聴いてて良すぎて誰かに伝えようと思ってさ」(原文ママ)
天才とか、天性の持ち主ってきっと岡田さんのような人のことを言うのだろう。無意識に何かを感じ取って、知らぬ間に他人を救ってしまうような特別な能力。岡田さんからしたら良い迷惑かとは思ったが、完全に心のタガが外れてしまった私は、昨日起きたことを全て話してしまった。それに対しても気配りのある、まるで映画の台詞(勿論良い意味で)かの様な返信を貰い完全に私の心は救われた。
またそのEzratが素晴らしく、その日1日中聴き入ってしまった。
最近リリースされたシングルでは岡田さんがジャケットのデザインを担当。こちらも最高。
そして後日、なんとアメリカからEzratのLPが送られてきた。ちなみに奥さんペイジとの双子の赤ちゃんは無事に産まれたとのこと。
すっかり岡田さんに持っていかれてしまったが、次回はそんな私の心の拠り所Yusuke Okadaをもう少し掘り下げたいと思う。続く